マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕日 聖餐式『言・神・光であるイエス様とつながる』

 新町の降誕日のインテンションでの聖餐式の説教を掲載します。聖書箇所は、イザヤ書52:7-10、詩編98:1-5、ヘブライ人への手紙1:1-12及びヨハネによる福音書 1:1-14。説教では、クリスマスは、キリストが私たちの生きる世界に来て私たちと共に生き、恵みと真理が私たちに現れた出来事であることを知り、言であり神であり光であるイエス様を見つめ、つながり、この方に従って生きるよう祈り求めました。
 ロゴスの具体例として説教台を取り上げ説明しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 皆さん、主の御降誕、おめでとうございます。
 本日は降誕日です。教会の暦としては降誕節の最初の主日です。降誕節は降誕日(12月25日)から顕現日(1月6日)までのシーズン(期節)を指しています。
 クリスマスは、Christ-masであり、これは、キリストのミサ、キリスト礼拝ということで、礼拝によってキリストと結ばれ霊的な生命に預かることができるのですから感謝なことであると考えます。
 
 さて、聖書日課についてですが、今年はB年で、福音書は基本的にはルカによる福音書が読まれますが、降誕日は、私たち聖公会ではA,B,C年共通でヨハネによる福音書の第1章が読まれます。本日の福音書箇所は 1:1-14で、ヨハネ福音書のプロローグを朗読いたしました。「ロゴス賛歌」と言われる箇所です。旧約聖書は、主が帰還したことを喜ぶエルサレムイザヤ書が描いた部分で「平和」と「救い」の福音が現れ、それが「地の果てまで」の万民の救いであることを基に、キリストの誕生と結び付けられています。使徒書は、キリスト賛歌ともいうべき部分で、神が「神の栄光の輝きであり、神の本質の現れ」である御子によって決定的に語られた「この終わりの時」を記述しています。
 これらの聖書箇所、特に福音書を通して、クリスマスの意味やクリスマスが与える私たちへのメッセージ等について考えたいと思います。

 本日の福音書箇所を振り返ってみましょう。
 まず、1・2節です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
 この「言(ことば)」という言葉の原語のギリシャ語は「ロゴス」です。ここでの「ロゴス」はイエス・キリストと見做されています。
 ロゴスというギリシヤ語は、「理性」や「根拠」とも訳されますが、もともとギリシヤ人哲学者たちによって用いられていました。彼らは、すべての物は、形が存在する前に考えにおいて存在していた、と考えたようです。その考えをロゴスと呼びました。例えば、ここに説教台がありますが、台ができる前に、台について「このように作ろう」という考えがあったのです。その考えがなければ、このような、きちんとした形に成り得ません。

 ヨハネの場合は、さらに全ての物の背後には、考えだけでなく、考える方がいたはずたと言っています。台の例を挙げるなら、台を考える人がいなければこの台はできません。単なる考えだけではなくて、考える存在がいなければいけません。したがって、「初めに、ロゴスがあった。」というのは、すべての物の前に考える方がおられる、ということです。
 それが、聖書で語られている神です。旧約聖書の創世記冒頭には、「初めに、神は天地を創造された。」とあります。神は、すべての物が存在する前に、すでに存在されていました。永遠の昔から生きておられるのです。そして、ヨハネ福音書によると、イエス様も最初からおられました。最初に父なる神がおられて、その後にイエス様が存在し始めたということではありません。「先在のキリスト」と言われます。「先に」「存在する」という先在です。
 そして、ヨハネは、「言は神であった。」と断言しています。イエス様は神なのです。つまり、イエス様はすべての物の前に存在されていた永遠の方であります。
 そして、次には、イエス様が創造主であることが語られています。3-4節です。
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」
 さらに、イエス様は命であります。こうあります。
「言の内に成ったものは命であった。この命は人間の光であった。」と。
 すべての物を造られた神は、人の命も造られました。すべての命の源は神にあります。人は、単に肉体が生きるだけでなく、また精神的に生きているだけでなく、霊的に生きるために造られました。そして、これは神につながることによって、初めて可能になります。
 そして5節です。
「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」とあります。
 闇を消したいと思って一生懸命手を振っても、消えません。闇を消すのは、ただ光を照らすことだけです。自分の判断で一生懸命努力しても、意味のある生き方をすることはできません。「光であるイエス様を信じることによってのみ、真に生きることができる」とヨハネは、そして聖書は言っているのです。
 こうして、イエス様は神ご自身であることが分かりました。最初から存在し、すべての物を造り、命を与え、人の光となってくださいます。
 
 6節以降は簡単に触れます。
 6節から8節については洗礼者ヨハネについて記されています。洗礼者ヨハネは、イエス様が来られたことを宣言した預言者で神の言葉を語りましたが、彼は神ではなかったのです。神を指し示すことはしましたが、彼自身は神ではありませんでした。
 9節から11節では、まことの光であるイエス様がこの世に来たのに、この世の人はイエス様を認めなかったことが記されています。
 12節・13節では、イエス様を受け入れる人は、大きな権能(新共同訳では「資格」)が与えられることが記されています。それは神の子となる資格です。神が遠く離れた存在ではなく、父のように親しくなることのできる資格です。
 
 14節に注目したいと思います。ここは詳しくお話ししたいと思います。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」です。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。」とあります。神学用語で言う「受肉」(インカーネーション)です。神が肉体の姿を取って現れたのです。「私たちの間に宿った。」というこの表現は、ギリシャ語を直訳すると「私たちの生活の現場にテントを張った」となります。神の言、神の命そのものである主イエス様は、私たちの生きるこの世界、この現実の生活のまっただ中に、テントを張って、私たちと共に生き始められたのです。これがクリスマスの意味であります。
 先ほど福音書朗読の前に歌った聖歌82番の4節「神のみ言(ことば)人となり 今日(きょう)生まれ 世にあらわれぬ」はこの個所を歌っています。
 聖書に戻りますと、また、「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。それは、神の御子イエス・キリストがこの世界に来られたことによる栄光であり、恵みと真実に満ちている、ということです。それは、今ここに集っている私たちにも与えられています。

 本日の福音書では、イエス様ご自身は神の言葉(ロゴス)であることが示されました。ロゴスは神であり、私たちの光であり、そして独り子であられます。私たちはこのイエス様とつながり、イエス様に従って生きたいと願います。どうやってつながるのでしょうか? それは日々の祈りによって、あるいは聖書を読むことによって、そして毎主日等の礼拝によってであります。
                                
  皆さん、神は私たち一人一人の心を受け止め真剣に考え、イエス様を「言葉」(ロゴス)としてこの世に派遣して下さいました。それは神が私たちを心から愛するがゆえです。イエス様の中に私たちへの神の愛が込められています。イエス様の中に私たちの人生に癒しや希望を与え、励まし、導き、完成しようという神の思いが込められています。イエス様こそ、まさに神の言葉です。
 私たちはイエス様を見ることで神を知ることができます。私たちはロゴスであり命であり、光であるイエス様を見つめつながり、この方に従って生きるよう祈り求めて参りたいと思います。
 
 最後にお祈りいたします。
 父なる神様、降誕日の礼拝に、私たちをお招きくださり、ありがとうございます。本日の聖書を通して、イエス様こそ神の言葉(ロゴス)であり、命であり、光であることをお示しくださり、感謝いたします。どうか、人となって私たちの内に来られたイエス様を、私たちがもっと知り、つながり、この方に従って生きていくことができるように導いてください。
 これらのことを、私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン