マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第9主日 聖餐式『聡明な心で神の国を求める』

 本日は聖霊降臨後第9主日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、列王記上3:5-12、詩編119:105-112とマタイによる福音書13:31-33、44-49a。説教では、天の国の5つのたとえを通して、イエス様が聡明な心で神の国を求めることを教えていることに気づき、主の祈りを唱えるたびに、また礼拝に集うたびにその思いを確認し、そうできるよう祈りました。
 成長したからし種の木の図や「洗礼を受けるあなたに」の中の言葉等も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第9主日です。ここのところ主日福音書は、マタイ福音書13章の「天の国(=神の国)のたとえ」が続けて取り上げられています。本日は31-33、44-49aです。旧約聖書は列王記上3:5-12で、ソロモンが「訴えを正しく聞き分ける知恵」を神様に求め、与えられたという記事が選ばれています。

 本日の福音書では、「からし種のたとえ」(31-32節)、「パン種のたとえ」(33節)、「宝が隠された畑のたとえ」(44節)、「高価な真珠のたとえ」(45-46節)、「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49節)という、5つの小さな「たとえ話」が語られています。
 今日の箇所でイエス様は、「天の国とはこのようなものですよ」と、当時の、その地の人には分かりやすい「たとえ」を使い、話しておられます。

 最初の「からし種のたとえ」(31-32節)ではこうあります。
 「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 からし種とはクロガラシのことで、一粒の大きさは0.5ミリ程度だそうで、ごく小さい物の象徴として、イエス様は取り上げています。人がそれを取って畑に蒔くと成長して鳥が枝に巣を作るほどの大きな木になるというのです。これが成長したからし種の木です。これは「聖書の植物物語」(ミルトス)の本の中にある図です。

 第2の「パン種のたとえ」(33節)ではこうです。
「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」
 1サトンは12.8ℓですから3サトンは38.4ℓです。ひとつまみのパン種(イースト菌)を38.4ℓの小麦粉に混ぜると大きく膨らんで、たくさんのふっくらしたパンができあがる。100人から150人分くらいのパンができるそうです。
 最初の「からし種のたとえ」(31-32節)と第2の「パン種のたとえ」(33節)では、神様と私たちとの関係は、その発端がどんなに小さな目立たないようなものであっても、結果は、想像もつかないほど大きくなるということが語られています。神様との関係が小さなところから始まっても、最後には大きな結果が約束されているということです。ここで注目したいのは、からし種、パン種というはじめはわずかな小さなものが、畑や小麦粉との「出会い」の中で、驚くほど大きく、豊かに変えられていくということです。それは、私たちが神様やイエス様と出会うことでなされることです。

 3番目は「宝が隠された畑のたとえ」(44節)です。
「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」
 イエス様の時代、人々はお金や宝石など財宝を手に入れると、壺に入れて、土を掘り、これを埋めて隠しました。それは、泥棒や強盗から財産を守るもっとも安全な方法でした。その持ち主が死んでしまって、土の中に埋められた財宝はそのまま残され、土地も人の手に渡ってしまうというようなこともありました。
 日本でも財宝を地面に隠すということはかつてはよくありました。赤城山に徳川の埋蔵金が隠されているというので、ずっと捜している人や、かなり前になりますがクレーン車で掘るテレビ番組があったことを思い出しました。
 聖書に戻ります。たまたまその土地を耕していた農夫(小作人)が、この財宝を偶然に発見し、掘り出しました。その土地は自分のものではありません。その財宝を自分のものにするためには、まずその土地を自分のものにしなければなりません。そこで、その宝物をそこに隠しておいて、家に帰り、今まで持っていた物を全部売り払ってお金をつくり、地主にかけ合って土地を買いました。天の国とはそのようなものだと言われるのです。 

 4番目は「高価な真珠のたとえ」(45-46節)です。
「また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
 このたとえも3番目のたとえと同じです。このたとえは、金持ちの商人が、高価な真珠を見つけると、それを手に入れるために、この人が蓄えた全財産を手放すという話です。
 畑に隠され見つけられた宝や商人がずっと探していて見つけた高価な真珠は、私たちではないでしょうか? そして、私たちを得るために、神様はご自分の大切なものを犠牲にしてくださるのです。

 最後は「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49a節)です。
「また、天の国は、海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網に似ている。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に集め、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」
  漁師たちは「鰭(ひれ)や鱗(うろこ)のないものは、食べてはならない」という律法に従って、網にかかった魚を選り分けます。網の中の魚、すなわち、神様の網にかかった魚でも、最後には、選り分けられて「悪いもの」は投げ捨てられることを暗示しています。ここでの「悪いもの」とは、倫理的な悪ではなく、持ち物すべてを売り払ってでも手に入れたいと人が願う「天の国」に気づかないことだと考えられます。

 今日の箇所で、イエス様が示された教えは何でしょうか? 
 そのことでは、本日の旧約聖書の列王記上3章が参考になります。ここでは父ダビデの後を継いでイスラエルの王となったソロモンは、夢の中に現れた主にただ一つのことを願い求めました。9節にこうあります。
「どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。そうでなければ、誰がこの数多くのあなたの民を治めることができるでしょうか。」
 ソロモンは、神から来る知恵、聞き分ける心を求めました。それに対して主は「あなたの言うとおりに、知恵に満ちた聡明な心をあなたに与える。(12節)」と言われました。その願いは神様の御心にかなったのです。
 これは、私たちにとっては、イエス様によって始められた天の国に気づき求め、それにすべてを賭けていけるように知恵や聡明な心を求めなさいとの意味ともとらえることができると思います。ちなみに「宝」や「真珠」は旧約聖書では知恵の象徴でした。

 人生は選択・決断の連続であると言えます。例えば進学や就職や結婚などです。私たちキリスト者にとってその最も大きなことは「洗礼」であると考えます。私は26歳の時でした。生き方が自分中心から神中心に転換するという、この時が私の人生のターニング・ポイントでした。皆さんにとって、御自身の洗礼の時はいかがだったでしょうか?
 なお、今度の主教巡杖の日、9月3日にはYさんが洗礼堅信式を受けることになりました。大きな喜びであります。そこで昨日、教会問答勉強会では洗礼について再確認するため、この本「洗礼を受けるあなたに~キリスト教について知ってほしいこと~」(日本キリスト教団出版局)から学びました。

 洗礼については、この本の「あとがき」(P.147)にこうありました。
『洗礼は人生における新たなスタートであるとともに、あなたという存在の原点になる出来事でもあります。その原点とはあなたがイエス・キリストに結ばれることであり、あなたが神のものとなるということです。』
 洗礼によってイエス様と結ばれ神のものになるのであります。そして、それは天の国(=神の国)においてです。私たちはその国を追い求めたいと願います。
 実は私たちはいつもそれを求めています。それは「主の祈り」を唱えることによってです。私たちは「天におられるわたしたちの父よ、」と天の国にいる父なる神に呼びかけ「み国が来ますように。」と祈ります。この「み国」が「神の国」です。「み国が来ますように。」は英語では「Your kingdom come.」、直訳すると「あなたの王国が来ますように」です。「あなたの王国」こそ、神様が王として統治・支配する国、神の国です。私たちは「主の祈り」を唱える時、いつも「神の国」を求めているのであります。

 イエス様が本日の聖書個所で教えておられること、それは、聡明な心で神の国を求めることではないでしょうか?
 今日の3番目のたとえの「宝が隠された畑のたとえ」の農夫は、予想もしなかった宝物を見つけました。そして、この宝物はこの人の人生を変えてしまうものでした。それは今までの生きてきた成果ともいうべき自分の持ち物を全部売ってでも、手に入れなければならない価値のあるものでした。私たちも人生のある時にイエス様という宝物に出会い、それまでの価値観を変えられ、洗礼によって新しい生き方に入りました。しかし、日々の忙しさ等で、つい、その原点を忘れがちになってしまいます。私たちは、主の祈りを唱えるたびに、また礼拝に集うたびに洗礼の時のその思いを確認し、聡明な心で神の国を求めることができるよう、イエス様のいさおと取りなしによって祈りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン