マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 聖餐式 『神のみ旨を聖霊に聞く』

 本日は顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。今年初めて新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、使徒言行録 10:34-38とマタイによる福音書 3 :13-17。キリストの洗礼の場面から、主イエスが洗礼を受けた意味及び私たちが洗礼を受ける意味を知るとともに、何が神のみ旨であるかを聖霊に聞き、それを日々の生活の中で現していくよう祈り求めました。
 愛用しているギリシャ語小辞典や参考になる書籍「祈りのはこぶね」も紹介しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 2023年に入って最初の新町の教会での聖餐式です。皆さん、新年おめでとうございます。
  
 本日は顕現後第1主日、そして、主イエス洗礼の日です。
 顕現日(カトリック日本キリスト教団では公現日)は1月6日で、その日までがクリスマスシーズンで、その日まではクリスマスの飾りを飾ります。
 顕現日とは、異邦人である東の国の博士たちがイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れたことを記念する日です。ユダヤ教では救いの対象はユダヤ人だけであると信じられていました。しかし救い主であり、神の独り子であるイエス・キリストは、公に異邦人にも現れ、救いの対象であると示されたのです。このことを感謝し、記念するのが顕現日・公現日です。本日はその顕現日後の最初の主日であります。
  また、本日の福音書の箇所では、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と神様によって宣言され、神の子として世界に現れました。つまり顕現(公現)されました。ですからイエス様の洗礼と顕現は同じ意味合いを持つのであります。
 なお、本日の使徒書は使徒言行録10:34-38で、ペトロがコルネリウス等異邦人に対して行った最初の説教から採られ、38節に「神はこの方(ナザレのイエス)に聖霊と力を注がれました。」とあるように、本主日のテーマ「主イエスの洗礼」と関連しています。

 本日与えられた福音書について考えたいと思います。マタイによる福音書3 :13-17 です。こんな内容です。
『イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に来られました。ヨハネは、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と止めようとします。それに対してイエス様は「正しく行うのは、我々にふさわしいことです」と言い、ヨハネは言われるとおりに洗礼を授けました。イエス様が洗礼を受け水から上がると、天が開け、神の霊が鳩のように下り、その時、「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。というところです。』

 イエス様がヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエス様が誕生してから30年もたった後の出来事ですが、このことはイエス様の公生涯としての活動の出発点でもあります。
  洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3:2)と言って回心を勧め、人々に洗礼を授けました。「悔い改める」はギリシャ語では「メタノエオー」で、メタ(変える)とヌウス(心・理性)の合成語です。

 アテネ大学を卒業した織田昭牧師のギリシャ語小辞典では「ヌウス(心・理性)を働かせて(福音に込められた)神の意志を受け入れ、キリストを自分の全生活の主として受け入れという、神の前での生活態度の根本に関わる切り替えをする」こととありました。神に向けて心を変え、方向転換することです。
 であれば、ヨハネが拒否しているように、イエス様は神と一体でありますから、イエス様は悔い改める必要はないと言えます。
 では、なぜイエス様は、ヨハネから洗礼を受けることを、公生涯の初めに行ったのでしょうか?

  15節でイエス様はこう言っています。「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と。
 イエス様は、ヨハネから洗礼を受けることを「正しく行う」ことと言われました。イエス様は、御自分に従う者たちの模範として、この正しいことを行ったのだと思います。つまり、神様に従う者たちが洗礼を受けることの大切さを、身をもって示されたのです。 
 また、「洗礼」はギリシア語では「バプティスマ」で、元の意味は「水に沈めること、浸すこと」です。洗礼者ヨハネが行っていた洗礼も、初代キリスト教会の洗礼も、全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで、新しいいのちに生きることを意味しています。イエス様は、古い罪の自分に死んで、新しい神のいのちに生きることの大切さを身をもって示されたのだと思います。
 さらに、「正しく行うこと」は原文の元々の意味は「義なること」です。洗礼を受けるというのは、神の義にかなっているのです。そして、それをイエス様が受けたという行動は、御自分の使命が何を優先して生きるかということを明らかにしています。つまり、物事を自分自身のやり方ではなく、神様のやり方で行うということです。
 ヨハネによる洗礼は、神様の支配に身をゆだねて生きることを表明する回心を表すものであり、救いを受けるための備えであります。その備えを行うことを神様は人に望んでいます。だからこそ、イエス様は民の一人となって洗礼を願い出たと考えられます。 
 
 つづく 16・17節で洗礼の意味を3つの「しるし」で示しています。それは「天が開く」と「神の霊が鳩のように降る」と「天からの声」です。
 「天が開く」。これこそまさに、洗礼を受ける私たちの姿だと思います。洗礼を受ける人に向かって天が開けてくるのです。救いが開けてくるというか、未来が開けてくる。希望が開けて、未来の可能性が開けてくる。洗礼によってこのようなことがもたらされると言うのです。
 「神の霊が鳩のように降る」。「神の霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージを表す表現です。まずイエス様御自身が、神のいのちそのものである聖霊と結ばれて、御自身の宣教を始められたのです。
 「天からの声」。「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声です。この「愛する子」という言葉に、イエス様が神の子としての使命を生き始めることが示されています。父である神がすべてを開き、御自分のいのちを、愛する子であるイエス様にお注ぎになった。これがこの洗礼の出来事です。
 また、「これは私の愛する子、私の心に適う者」というこの声は、私たちすべての人間に向けての、神様の心と言っていいと思います。イエス様の洗礼という出来事を通して、私たちすべての人間が「これは私の愛する子、私の心に適う者」とされていることが明らかにされたのだと言うこともできます。私たちの洗礼は私たちが「神の愛する子」とされることを表しているのです。

  なお、13節では「彼(ヨハネ)から」と洗礼を授ける人物が明示されていますが、16節では、「洗礼を受ける」とだけ述べて、誰によって洗礼が行われたのかは示されていません。文脈から考えれば、イエス様に洗礼を授けたのはヨハネであるのは確かですが、16節ではそれを述べずに、ただ受動態を用いることによって、イエス様の洗礼には神の力が働いており、それを神が望んでいることを暗示しているのかもしれません。
 私も42年前に斎藤章二先生から洗礼を受けましたが、それは神の大きな力が働いて、神の意志により洗礼を授けられたように思います。

  洗礼を受けると、天が開け、聖霊が鳩のように降り、父なる神が「愛する子」と言ってくださる。三位一体の聖なる神が一致の内に共に働き、イエス様を、そして私たちを祝福して下さるのです。
 主イエス洗礼の日、それはイエス様が洗礼をお受けになることで、その使命が明らかにされたことを記念し祝う日です。そして、またこの日は、洗礼を授けられた私たちも、神から委ねられた使命を認識する日ではないでしょうか?
 イエス様の洗礼は私たちにとっても無縁なものではありません。私たちもまた洗礼を授けられることで、イエス様に注がれたのと同じ聖霊を注がれ、神の子とされ、神のみ旨を日々の生活の中で現していくように召されたのです。
 
 しかしながら、何が神のみ旨かということが難しいところです。そこで思い浮かんだ言葉が「識別」という言葉です。「識別」とは一般的には「物事の種類や性質などを見分けること」で、例えば、「雌雄(めすとおす)を識別する」というふうに使われますが、キリスト教では特に「霊的識別」のことを指します。英語ではdiscernmentと言い、何が神のみ旨であるかを聖霊に聞くことです。それは何によってなされるか、それは祈りによってです。では、どう祈ればいいのでしょうか? 
    今日は、参考になりそうな本を持ってきました。イエズス会の英隆一朗神父による「祈りのはこぶね」です。

 この本は、テーマごとに、「どんな心と態度で祈ればよいのか」といったヒントやふり返りも記されています。テーマは「1 祈りは願いである」 で始まり、以下、「2 祈りは共にいること、3 祈りは嘆きである、4 祈りは聴くこと」と続き、「13 祈りは望むこと、14 祈りは工夫するもの」で終わります。この12番目に「祈りは選ぶこと」とあります。この選ぶことが「識別」ということです。この箇所にこうあります。「私たちが選ぶのは、常にイエス・キリストの生き方である。それゆえ、頭と心の基準をイエスの頭と心に合わせなければならない。イエスならば、どのような選択をされたか、頭と心を通して、思いめぐらすこと。イエスの生き方こそ私たちの選びの祈りの基準なのだ。」と。さらにこうあります。「大切なのは、いつも神のみ旨を選んでいこうとする姿勢である。祈りの中で、神のみ旨が何かを真剣に探し、悩むこと。探し求める祈りこそ、神の御心にかなっていると言える」と。
 祈りの中で、イエス様の生き方を基準として、聖霊に何が神のみ旨かを聞いて参りましょう。それこそが「識別」です。

 さて、2023年が始まって1週間が過ぎました。皆さんの今年の抱負は何でしょうか? 私にとっては何が神のみ旨か、「朝の祈り」の中で聖霊に聞いていましたところ、ある示唆が与えられました。
 私は明後日、1月10日で68歳になります。日本聖公会の聖職の定年は70歳です。あと2年です。その間に私が行うよう招かれていることは何か? 思い浮かんだのは「丁寧な牧会・宣教」ということです。ある朝、マッテア教会の聖堂で祈っているとき「マルコ、お前だからできる方法でそれを行いなさい」という言葉を聞いたような気がしました。司牧を任されている信徒一人一人を大切にすると共に私に与えられている賜物や人間関係を生かして宣教を行っていきたいと思います。それが私にとっての識別、つまり神のみ旨を聖霊に聞いた結果です。

 皆さん、私たちは今日、洗礼により、天が開け、聖霊が鳩のように降り、父なる神が「愛する子」と言ってくださること、その時、三位一体の聖なる神が共に働き、イエス様を、そして私たちを祝福して下さることを知りました。私たちは神の子とされ、神のみ旨を日々の生活の中で現していくように召されたのです。識別に努めましょう。そして、何が神のみ旨であるかを聖霊に聞き、それを日々の生活の中で現していくよう祈り求めたいと思います。