マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第2主日 聖餐式 『神の支配に向けて方向転換』

 本日は降臨節第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書11:1-10とマタイによる福音書3 :1-12。降臨節アドベント)の目的である洗礼者ヨハネのメッセージ「悔い改めよ。天の国は近づいた」の意味を知り、その警告を心に留め神が支配する所に方向転換し、イエス・キリストの来臨を、喜びをもって迎えるよう祈り求めました。最後に、サッカーワールドカップで日本がドイツやスペインに逆転勝利を収めたことを悔い改めと絡めて話しました。

   神の支配に向けて方向転換

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降臨節第2主日です。アドベント・クランツのろうそくも2本目にも火が点りました。降臨節第2主日は、代祷の項目にもありますがバイブルサンデーと言われる主日です。それにはこのような訳があります。1549年に英国聖公会は第一祈祷書を出版しましたが、その中で降臨節アドベント)に再臨のキリストに備える目的に沿って、主日ごとに祈りの課題を設定しました。それは第1主日「キリストが与えられたことを感謝する」、第2主日 「聖書が与えられたことを感謝する」、第3主日「聖職が降誕の備えをする」、 第4主日「再臨への備えをする」でした。これに沿って、英国聖書協会は、毎年、降臨節第2主日を「聖書の日曜日(バイブル・サンデー)」と定めたのでした。
 降臨節に聖書の重要性を認識し聖書を読む機会とするのは、神の言葉がイエス様として受肉したこの時宜にかなっていると言えます。

 さて、降臨節第2主日には毎年、洗礼者ヨハネのことが福音で読まれます。
 本日は、洗礼者ヨハネが説いた「悔い改め」の意味を中心に、クリスマスを控えたこの時期の心の姿勢等について考えたいと思います。

 洗礼者ヨハネのメッセージは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)ということです。そしてこの聖句こそ、降臨節アドベント)の目的であると言ってもいいと思います。この天の国の「天」というのは神のことです。ユダヤ人たちは神を畏(おそ)れ尊ぶあまりに、「神」という言葉は使わずに「天」という言葉で表しました。だから、「神の国」と言わずに、「天の国は近づいた」と言うのです。そして、天の国の「国」とは何かというと、「神の支配」あるいは「神の統治」というほどの意味です。天の国とは、神が支配し神の力により統治されているところです。ですから、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのは、神の支配・統治がもう私たちのところに及んでいる、「だから、悔い改めなさい」というメッセージです。支配と言うといいイメージではないと思われるかもしれませんが、先日もお話ししましたが、支配とは「支え配る」と書きます。ですから、神の支配とは、神が私たちを支え私たちに必要なものを配ってくださる、ということだと言えます。
 この「悔い改め」という言葉ですが、日本語でイメージする「悔い改め」に留まるものではありません。「悔い改め」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「メタノイア」と言い、その言葉の元々の意味は、「方向転換」です。向きを変えることです。私たちの生き方の方向性を、向かうべきところに向け直すことを、メタノイア「悔い改め」と呼んでいます。ことにこの箇所では「天の国」の到来との関係で語られていますので、自分の「内」に目を向けて反省することではありません 。「外」、すなわち「神の支配」に目を向けて、そこに自分をゆだねることを意味します。神が地上に支配を及ぼそうとしているという現実に目を向け、自分の生き方をそれにゆだねることがヨハネの言う「悔い改め」なのであります。
 洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で呼びかけていました。ユダヤの荒れ野というのは、砂と岩しかないような、草も生えていないような、そんな砂漠のような所です。4年前のイスラエル旅行で荒れ野を散策しました。このような場所です。

 そこでヨハネは悔い改めを呼びかけました。
 そのいでたちは、「らくだの毛衣(けごろも)を着て、腰に革の帯を締め」(4節)ていたとあります。旧約聖書を知っていた人たちにとっては、これはエリヤという預言者のいでたち(列王記下1・8参照)であり、当時のユダヤ人にとってはヨハネがエリヤの再来か預言者であろうというイメージだったと考えられます。そして洗礼者ヨハネは、「ばったと野蜜(のみつ)を食べ物としていた」(4節)とあります。「ばったと野蜜」、どんな食べ物かあまり想像できませんが、今の飽食の時代とは全く違う、貧しく空腹の状態で毎日を過ごしていたと思います。「ばった」はこれまでの聖書では「いなご」と訳されていました。「いなご」は日本特有の種を指すそうで、ここの昆虫はそれよりも倍近い「ばった」だそうです。そのようなものを主食としていたとなると余計に、世俗から離れていたことを想像させます。
 そのヨハネのもとに人々が集まりました。エルサレムから、ユダヤ全土から、そしてヨルダン川沿いの地方一帯からです。そして、ヨハネに「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(6節)のです。多くの人が集まって、罪をヨハネの前に告白したのです。そして、ヨルダン川で彼から洗礼を受けました。 
 聖書で言う「罪」とは、悪い行いのことではありません。「罪」とは、神に背を向けて生きてきた人間と神との間に生じた「ずれ」と言えます。神の支配が始まろうとしている今、この「ずれ」をなくす必要があり、そのために洗礼者ヨハネは、悔い改めの具体的な表明として、彼らに罪を告白させ、洗礼を授け、人々の生きる道を神へと真っ直ぐに向けさせたのです。
 洗礼者ヨハネの前に来た時に、また洗礼者ヨハネの話を聞いた時に、大勢の人が自分の存在の向きが違っている、と気づかされました。そして、ヨハネに会った時に、神との間の「ずれ」を認め、水の洗礼を受けて、向かうべき方向に向かう「方向転換」をしたのであります。

 つづいて、洗礼者ヨハネは、ファリサイ派サドカイ派の人々が大勢洗礼を受けに来たのを見て、「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(7節)と、厳しく言っています。ファリサイ派は、律法に新たな解釈を加えることで律法に従った生活を実現しようと考え、サドカイ派は、保守的な上流階級に支持者を持ち、伝統的な生き方に固執していました。聖書教会共同訳は「洗礼を受けに来たのを見て」と訳してますが、原文を見ますと「(彼らが)彼の洗礼へ来ているのを見て」であって、「受けに」にあたる言葉はありませんでした。彼らの大多数は好奇心から、あるいは、ヨハネの過ちをあばこうとする下心をもって、「洗礼の場」に様子を見に来たのだと思われます。
 洗礼者ヨハネはそういう彼らに向かって言います。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(8・9節)と。ユダヤ人であることが救いを保証するのではありません。だから、ヨハネファリサイ派サドカイ派の人々に「悔い改めにふさわしい実」を結ぶよう要求します。この実とは、神の支配に身をゆだねたことを態度で表すこと、つまり「洗礼」を意味しています。人は誰でも「罪」という神との間に生じたずれを持っています。人がまずなすべきなのは、生きる向きを変え、神との間にあるずれをなくすこと、すなわち洗礼を受け、神の支配を身に受けることであります。洗礼者ヨハネは私たちに、そう教えています。

 さらに、11・12節で「私の後から来る人」、つまり来たるべきメシアによる洗礼について言及します。メシアの洗礼は「聖霊と火」によるものです。この洗礼はもはや悔い改めのためではなく、人を救うための、そして同時に人を裁くためのものです。聖霊は生かし、火は焼き尽くします。ヨハネの授ける洗礼は、この決定的な洗礼に備えるためのものであるのです。
 次に、メシアによる洗礼を、ヨハネは収穫のたとえを用いて説明します。その方は箕を手にして「麦」を倉に納め、「殻を消えることのない火で焼き尽くされ」ます。この時代のユダヤでは、脱穀した穀物を箕にすくい、風に向かってそれを投げ、軽い「もみ殻」と重い「実」を分けたそうです。ヘブライ語の「風」は聖霊をも意味します。来るべき方は聖霊によってもみ殻と実をふるい分けます。あるいは一人の人の中にあるもみ殻と実が、聖霊によってふるい分けられ、来たるべき方により、殻は焼き尽くされ麦の実だけは倉に納められるのです。これこそメシアのもたらす「救い」であります。

 ここで本日の旧約聖書についても少し触れたいと思います。本日の旧約聖書箇所はイザヤ書11 章1 ― 10 節で、ダビデ王朝の現実の王に失望した南ユダ王国預言者イザヤが、主の霊に満たされた理想の王がダビデの子孫から生まれることを語った箇所です。エッサイはダビデの父親の名であり、ここでの「エッサイの株」とか「エッサイの根」は、ダビデ王朝を指しています。そのダビデの子孫から生まれる理想の王を「メシア」とし、イザヤたち預言者は「超人的理想の王」を待望しましたが、後の新約の時代の現実に到来した「メシア」は、人々の罪を代わりに背負って苦しみ十字架に上る、そういうメシアでした。 
 旧約聖書はメシア(救い主)の到来を預言し続けました。洗礼者ヨハネはその流れの中で、最後の預言者として登場し、「メシアのための道を備えるように」と呼びかけました。ヨハネの後から来る人による洗礼は、決定的な救いであると同時に、決定的な裁きでもあります。それに先立つヨハネによる洗礼は、この決定的な洗礼に備えるための洗礼に他なりません。ヨハネは洗礼を授けることを通して、人々を神の「いのち」へと結びつけ、後から来る人、つまり主イエス・キリストの来臨に備えて、神の方に方向転換をするようにと呼びかけています。
 
 私たちの心には荒れ野のような不毛な地があるのではないでしょうか? そこにメシア(救い主)であるイエス様を迎え入れるとき、人の内にあるもみ殻は焼き尽くされ、麦の実は聖霊の風に祝福されて留まります。イエス様からの風によって洗われることは、実を結ぶことに他なりません。ヨハネの授けた洗礼とは、身も心も神の方へ向きを変え、イエス様がもたらそうとしているこの聖霊の風を受け止めるための備えなのです。

 ところで、ここのところ連日、テレビではサッカーワールドカップの話題が賑わしています。先日、ドイツやスペインに日本が逆転勝利を収めたことを日本中が喜びました。このことは、罪という強豪にリードを許しても、悔い改めて神の方に方向転換すれば、逆転勝利という実を結ぶことができることを証明したと、私には思われたのであります。悔い改めを導くイエス様を信頼し、その導きに従い方向転換し、人生において逆転勝利を収めようではありませんか?
  
 皆さん、神は私たちとの関係を大事にされます。独り子イエス様をもお与えになりました。そしていつも私たちと共にいてくださいます。その恵みに感謝し、神の支配するところへ方向転換しましょう。そして、この降臨節アドベント)の期節、神とのつながりを大切に、聖書を読み、喜びを持ってメシア(救い主)であるイエス様を迎える備えができるよう祈り求めたいと思います。