マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第7主日 聖餐式『どの地にも種を蒔かれる神の愛』

 本日は聖霊降臨後第7主日。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書55:1-5、10-13、詩編65:9-13とマタイによる福音書13:1-9、18-23。説教では、一人一人を無条件に愛しどの地にも種を蒔いてくださる神の愛に感謝し、御言葉を聞いて受け入れ、神の教えに従った歩みができるよう祈り求めました。
 本日の聖書箇所「種を蒔く人のたとえ」を題材として描かれたと言われているミレーの絵画「種を蒔く人」等も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第7主日です。福音書はマタイ13章の冒頭の「種を蒔く人のたとえ」と18節以下の「種を蒔く人のたとえの説明」です。ここでは、天の国(神の国)はいろいろな所に蒔かれた種のように様々な困難、失敗はあるけれど、確実に大きな収穫をもって到来することを語っています。旧約聖書イザヤ書55章1節以下で、特に10節の後半「種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。」の聖句が福音書と関わっていますが、「神の言葉はその願いを成し遂げ使命を果たす」という内容も対応していると言えます。

 福音書を中心に考えます。
  聖書を読むときに大事なことは、文脈を押さえることです。この話は、どういう状況で誰に語っているか、などということです。マタイ福音書13章1節から3節前半にこうあります。
『その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆が御もとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。』
 ここからこの後の3節後半以降は岸辺にいる群衆に向かってイエス様が舟の中から語ったということが分かります。ちなみに、「腰を下ろす」は、ラビ(ユダヤ教の教師)が弟子に教える姿勢であります。
 では、18節以降は誰に語っているでしょうか? 新たなカギ括弧で始まってます。ここの対象は、私たち聖公会日課では省かれていますが(カトリックは途中も読む日課になっています)、9節の続きの10・11節にこうあります。
『弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘義を知ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。』
 この後はずっと弟子に向かって語っていますので、18節以降も対象は弟子と考えられます。また、たとえを用いて話す理由について、弟子たちには天の国(神の国)の秘義(別の訳では「神秘」)を知ることが許され、群衆にはまだそれを知ることが許されていないことが示されています。
 では、「たとえ」とは何でしょうか?  「たとえ」はギリシア語で「パラボレー」と言います。それは「パラ+バロー(そばに投げる、並べて置く)」であり、「2 つのものを並べて置き、対比させる」という意味です。詳しく言えば、「たとえ」とは、日常生活で起こる事例を取り上げ、霊的真理を教えることであり、現実の体験(知っていること)と霊的真理(知らないこと)の対比をするものです。

 本日は「種を蒔く人のたとえ」を使って、イエス様はある霊的真理を教えようとしています。
 この「たとえ」の背景については、当時の農作業の状況を踏まえる必要があると思います。2000年前のパレスチナ地方の種蒔きの様子は、私たちの知る一般的な種蒔きとは違っています。この地方では、農夫が種を蒔く方法は、まず種を蒔き、その後で耕すのが普通でした。19世紀フランスの画家、ミレーの作品に「種を蒔く人」という絵があります。

 これは、本日の聖書箇所「種を蒔く人のたとえ」を題材として描かれたと言われています。その農夫の姿をイメージして下さい。荒野と思える貧しい畑でこの一人の農夫は何を思って種を蒔いているでしょうか? それは未来の「パン」のためです。彼は、厳しい作業だけれど最後には収穫が得られるという、「希望」をもって種を蒔いていると考えられます。4節に「ある種は道ばたに落ち」とありますが、「道」は刈り入れ後の農閑期に村人が行き来するうちにできた通路ですが、それもやがては耕されて農地に変わります。それを承知しているので、農夫は「道」にも種を蒔きます。また農閑期に茨が生えてしまっていても、すぐに耕されるので、そこにも気にすることなく種を蒔くのです。イエス様のたとえは、当時の人が見慣れたこのようなパレスチナの日常生活を素材としています。
 ある種は道端へ落ち、ある種は石だらけの所に落ち、ある種は茨の中に落ち、そしてある種は良い土地に落ちたというのは、このような背景があったのです。
 
 本日の箇所で、イエス様は人間を4つの型(タイプ)に分けています。
 第1のタイプは道端に落ちた種です。19節に「誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ」とありますが、この種が御国の言葉です。御国とは神の国ですから、種とは神の言葉であるということになります。または神の教え、福音とも言えると思います。ある種は道端に落ちます。踏み固められた道では、種は発芽することが出来ず、鳥が来て食べてしまいます。第1のタイプはこのように神の言葉や教えに触れても聞いて悟らない人です。
 第2のタイプは石だらけで土の少ない所に落ちた種です。石だらけで土の少ない所に落ちた種はすぐ芽は出ますが、根がないので枯れてしまいます。御言葉を聞いてとりあえず受け入れるものの、根がないので、苦難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまう人です。最初は、神の言葉や教えに従って生きていこうとしますが、何らかの形で壁にぶつかってしまうと、信仰という根がしっかりしていないので神の姿を見失ってしまう。そういう人と言えると思います。
 第3のタイプは茨の中に落ちた種です。茨の中に蒔かれた種は、茨が伸びて成長をふさいでしまいます。そのように、御言葉を聞いてもこの世のことの誘惑が福音を覆(おお)ってしまい、信仰が実らない人のことです。言い換えれば、この世の慣習や常識などにとらわれてしまい、それらに従ってしまう人、具体的には、富や社会的地位、学歴などといったこの世のものを重視して、神の教えが見えなくなってしまう人といえるかもしれません。
 第4のタイプは良い土地に落ちた種です。23節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」とあり、良い土地に落ちた種は実を結び、もとの百倍や六十倍や三十倍にもなった、とあります。これは御言葉を聞いて受け入れ、神の教えに従った歩みをする人のことです。そのような人は、徐々に信仰を深めていき、神に似た者となっていきます。神の言葉を聞いて悟ることの重要性が語られています。

 本日の箇所で、イエス様は、道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種という4つの例えを用いて4つのタイプの人間を現しました。この例え話は、最初の3つのタイプ、つまり道端や石だらけの所や茨の中のような土地でなく、最後のタイプ、つまり、よく耕された良い土地のような人間にならなくてはならないというふうに読むことが多いかもしれません。
 しかし、別の見方では、このたとえ話は4種類の人間ではなく、一人の人間の中の4つの状態のことを言っているととらえることもできるのではないでしょうか?

 道端を歩み、石だらけの土地を歩み、茨をかき分け、豊かな地を歩む。これが一人の人の人生であり、一様ではありません。神様はそのような一人の人間のあらゆる状態に対し、常に良いものを与えようと望んでいるということが、本日の箇所でイエス様が教えようとしていることと考えます。
 「種を蒔く人」は私たちの心の状態がどのようでも、辛抱強く蒔き続けてくださるのです。これが神様の私たちに対する愛であります。本日の福音が語るメッセージは「良い土地になるよう努力しなさい」ということではなく「何があろうともやがて神の畑は実を結ぶ」というものです。
 私たちは皆、これまでの人生のあるときに神様によって種を蒔かれました。「種を蒔く人」は良い土地だから種を蒔かれたというのでなく、どのような土地の状態でも、悪い土地であっても、無条件に種を蒔いてくださったのです。それが神の愛です。無条件に愛してくださり種を蒔く方、それがイエス様であり、「すべての人にどのような状況でも種を蒔きたい」というのが神の御心です。
 その神の言葉が私たちを信仰生活という新たな道に招いたのです。神の国に向かう、その道が希望となりました。そのことを、本日の入堂聖歌の聖歌315番で歌いました。聖歌315番の、特に3節をご覧ください。
 こうあります。
「力にあふれた 神の言葉は 新たな道へと われらを招く
 栄光めざして 生きる命は ハレルヤ ハレルヤ 希望の証」
 このことをおぼえたいと思います。 

 皆さん、神様は一人一人を無条件に愛して、どの地にも種を蒔いて私たちを信仰の道へ招いてくださいます。その神様の大きな愛を知るとき、感謝と希望がわき起こります。私たちは、御言葉を聞いて受け入れ、日々神様の教えに従って歩むことができるよう、そして、ついに神の国に入らせていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン