マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第4主日聖餐式 『イエス様によって目が開けられる』

 本日は大斎節第4主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙5:8-14とヨハネによる福音書9:1-13、28-38。イエス様は私たちに近づいて傷ついた心を癒し、新たな見方を与えてくださることを知り、イエス様を生涯信じ、それぞれの働き(使命)を果たすことができるよう祈り求めました。
 ヨハネ福音書9章3節が引用されている盲伝(日本盲人キリスト教伝道協議会)70周年記念誌や岩橋武夫の自伝『光は闇より』を紹介しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は大斎節第4主日です。大斎節第3~第5主日には、洗礼志願者のための伝統的な朗読箇所として、ヨハネ福音書の4章、9章、11章が読まれます。これらの箇所は、洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。今日の箇所はその2番目で、生まれながら目の見えなかった人がイエス様との出会いによって癒やされ「闇から光へ」と移される出来事が記されています。さらに、シロアムで目を洗った盲人が見えるようになり、「主よ、信じます」と言って人の子であるイエス様への信仰を告白します。使徒書はエフェソ書5章8節以下で、洗礼への言及とされる光となった者、「光の子」について述べる箇所が選ばれています。
  
 福音書を中心に考えます。あらすじはこのようです。イエス様が生まれつき目の見えない人を見かけます。イエス様はその人の目を不思議な方法で開けます。目が見えるようになったその人は「イエスという方が見えるようにしてくださった」と周囲の人に語ります。そこでその人はファリサイ派の人々の前に連れて行かれるのですが、議論の末ファリサイ派はその人を追い出してしまいます。追い出された人の前にイエス様が現れ、その人は信じる者となった、というのがこの箇所のだいたいの流れです。
 今日はこの話から3つの箇所を取り上げてみたいと思います。
 
 まず考えたいのは1節から3節です。
『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』
 「神の業」の「業」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語ではエルガ(エルゴンの複数形)でした、エルゴンを辞書で引くと「行い、業、働き、作品」とありました。英語の聖書(NRSV)ではworksでした。イエス様は「この人が生まれつき目が見えないのは、本人や両親の罪のためではなく、神様の働きがこの人に表れるためなのだ。人はみな、神様の作品なのだ」と言っているように思います。
 私は、これまでこの部分では、「障害者には障害のある意味があるのだ」というふうに理解していたのですが、今回読み直して、これは「障害者はもちろんですが、それぞれの人に神様は一人一人に応じてご自分の業(働き)を現そうとしている」ということではないかと思いました。私たちも今のこの立場や状況において、神様から一人一人その人ならではの働き(使命)を与えられている、と考えます。

 次に考えたいのは6節から7節です。
『こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム・・『遣わされた者』という意味・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。』
 イエス様のつばや息のかかった土をその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗ったら目が見えるようになったというのです。イエス様に直接触れていただき、「遣わされた者」という意味の池で水で清められたら癒され、物事の真実が見えるようになったということ、これは洗礼を意味するのではないかと気づかされました。私たちも洗礼によって、イエス様という、神様からこの地上に「遣わされた者」によって洗い清められ、これまでとは違う新たな視点で心の目を開かされました。新しい見方(信仰のまなざし)でものが見え、新たに生まれさせられたのです。

 最後に35節から38節です。こうあります。
『イエスは彼が外に追い出されたとお聞きになった。彼と出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひれ伏した。』
 これはイエス様への信仰告白であり、イエス様を神と認めて礼拝しているのだと考えられます。
 これと似た言葉が洗礼式文の中にあります。祈祷書の280ページ、洗礼堅信式の信仰告白です。父と子と聖霊の三位一体の神の第二位についてです。こうあります。
『司式者 この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じますか
   答 わたしは、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じます』
 洗礼式当日、私たちはこう言って「イエス様を自分の贖い主として信じる」と告白して、新たに生まれ、イエス様の弟子となったのです。そのことをもう一度思い起こしたいと思います。

 ところで、私は昨年10月から盲伝(日本盲人キリスト教伝道協議会)の理事をしていますが、本日の聖書箇所、ヨハネ福音書9章は多くの視覚障害者に新たな視点を与え、特に3節「神の業がこの人に現れるためである。」が盲伝の原点であると、この盲伝70周年記念誌「喜ぶ者 泣く者と共に-盲伝創立70年を迎えて-」の冒頭に記されています。

 本日の説教で取り上げた3つの箇所の最初のヨハネ福音書9:1~3を読んで、イエス様を信じ救われた視覚障害者の一人に、岩橋武夫(1898~1955)という人がいます。岩橋武夫は、「日本ライトハウス」という視覚障害者のための総合福祉施設を創設し、戦前・戦後にヘレンケラーを2度にわたって日本に招きました。彼は、『光は闇より』という自伝の中で、どのようにキリスト者になったかを書き記しています。

 彼は、20歳の時に失明しますが、それを通して、自分の人生の意味を深く考えるようになります。こうあります。
『人生とは闇だ。何のために生まれてきたのか、なぜ私だけが、このような目に遭わなければならないのか。生まれてこなかったらよかったのに。』(P.33)
 岩橋は目が見えないという以上に、人生が闇であり、生きる意味を見いだせないことに苦悩します。その時に新興宗教の布教者が彼を訪ねてきて、「あなたの目が悪いのは、ご先祖の祭りをおろそかにされた結果です」と語りますが、彼は反発します。
 しばらくして岩橋は、ヨハネ福音書9章を読み、感激します。その時のことを、次のように述懐しています。
『時あたかも、真夏の八月であったが、私は寝食を忘れて聖書を読みふけった。わけても最も私の心をとらえたものは、ヨハネ伝9章であった。先に述べた女布教師が、因果の説法で、祖先の霊が祭りを絶やされたためのたたりだと説いた失明問題、また私が長い間心の奥底で深い疑惑を持って取り扱ってきた問題が、ここに突如として、私の前に解決の光を与えられたのである。』(P.46)
『生まれながらの盲目、それは誰の罪の故でもなくして、彼の上に、神のわざの現れんためだ、とイエスは説く。人の目から見れば、取るに足らない弱い悩める罪人も、神の目から見れば、大いなる愛の輝きとしての器である。~同じ姿が一方には黒となり、一方には白となるパラドックスである。』(P.48)
 彼は、キリスト・イエスの深い愛に触れ、心の闇に光が照らされ、大いなる希望を持つに至ります。そして、彼は、1919年、母親と共に洗礼を受けます。その時のことを以下のように記しています。
『私は、キリストと出会って初めて闇の問題が一切解決されたのを覚えた。実に闇のゆえに、闇を転機として私の一家はより善き生活を与えられたのである。神は善き恩寵の十字架を私の上に、立てられたのであった。ここに暗いと思った人生が明るく肯定され、悩み通した人生は神への感謝に変わっていった。たとい私の目は開かないとしても、私はありあまる恩寵を受けることができた。』(P.50)
『その翌年、私は信者になって洗礼を受ける人であった。同じくその時私のそばに坐していたのが母である。次に妹も救われ、かくて、闇の私のみならず、私の一家に思いもかけぬ光をもたらしたのであった。「光は闇より」-この恵まれたる信仰の証のために、私はナザレのイエスを永遠に愛し、その十字架の福音を不滅に信じるものである。』(P.51)
 岩橋武夫はヨハネ福音書9:1~3の御言葉によって、因果応報などの因習から解放され、生きる意味、自分の障害の意味を見つけ、勇気と希望を与えられたのでした。まさに、本日の使徒書、エフェソの信徒への手紙5:8の「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。」とある通りです。さらにいえば、本日の詩編23編の2節「神はわたしを緑の牧場に伏させ 憩いの水辺に伴われる」の御言葉のように、この神様との出会いにより真に生き生きとした人生を送ることができたのでした。そして、彼は視覚障害だけでなく、身体障害者福祉法の制定に尽力するなど我が国の福祉の向上に大きな働きをしたのでした。

 皆さん、本日の福音書では、生まれつき目の見えない人へイエス様のほうから近づき、イエス様に直接触れていただき、水で清められたら物事の真実が見えるようになり、「主よ、信じます」と信仰告白する姿が描かれていました。
 冒頭、本日を含めた3主日福音書は、洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所と話しましたが、私自身の洗礼の時(26歳の頃)も、イエス様が近づいて触れてくださり、それにより癒され心の目を開かされたことを思い出しました。そして、洗礼の時だけでなく、今もイエス様は私たち一人一人に近づいて直接触れて傷ついた心を癒し、信仰のまなざしで新たな見方を与えてくださいます。私たちは自分の贖い主としてみ子イエス様を生涯信じ、神様が与えておられるそれぞれの働き(使命)を果たすことができるよう祈り求めたいと思います。