マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第4主日『子が帰ることを喜ぶ「全能の神」』

 本日は3月30日、現役最後の主日を前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ヨシュア記5:9-12、詩編32、コリントの信徒への手紙二 5:16-21、ルカによる福音書15:1-3・11b-32。説教では、「いなくなった息子(放蕩息子)のたとえ」から、「全能の神」は私たちが神のもとに帰ることを望んでいることをおぼえ、悔い改め(回心し)、イースターを迎える心の準備をするよう述べました。
 本日のテーマと関係するゴスペルミュージック「エルシャダイ」を本田路津子のCDで聞きました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は3月30日、私にとって前橋聖マッテア教会における今年度最後、そして現役としての最後の礼拝です。私は明日、定年退職します。マッテア教会の牧師として4年間聖務を果たすことができ、神に、そして皆様に感謝いたします。なお、4月以降も毎主日の礼拝の司式をさせていただきますが、前橋では月の第5主日の礼拝を務めさせていただきますので、よろしくお願いします。

 さて、教会の暦では本日は大斎節第4主日です。大斎節の大きなテーマは「悔い改め」ということで、先主日も本日の箇所もそのことについて述べています。3月5日の灰の水曜日から始まった大斎節ですが、もう一ヶ月近くが過ぎました。今年のイースターは3週間後の4月20日ですが、その前日までが大斎節です。

 今日の福音書ルカによる福音書 15:1-3及び11b-32で、改正試用版で前半が付け加わりました。カトリック教会では以前からこの前半を含めた箇所でした。
 15:1-3で、ファリサイ派や律法学者たちがイエス様に「なぜ罪人たちを受け入れ一緒に食事をしているのか」と問いただします。それに対してイエス様はルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分がそうしているかを語ります。3つのたとえとは「見失った羊のたとえ」と「無くした銀貨のたとえ」と本日の箇所の「いなくなった息子のたとえ」です。「いなくなった息子のたとえ」はこれまで「放蕩息子のたとえ」としてよく知られた箇所です。今回の訳では小見出しが「いなくなった息子のたとえ」となり、この方がこの箇所の真意を表していると考えます。
 11b-32の概略はこうです。
『父から受けるはずの自分の分の財産をもらって、弟息子は家を出ます。そこで身を持ち崩し財産を使い果たしてしまい、家畜の餌も食べることができないほど落ちぶれます。どん底になったとき、我に返り父のいる豊かだった家を思い出します。「父のところへ帰ろう。」息子は、父のもとに戻ります。弟息子が罪を告白すると、息子の帰りを待ち続けていた父は、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、弟息子を温かく迎え入れます。それに対して、兄息子は怒りますが、父は同じ言葉を繰り返すのでした。』
 このような話でした。

 この箇所は大きく3つの部分からなっています。ポイントを見ていきましょう。
 最初に11b-16節です。
 ここでは、まず、弟息子は父親に向かって、「お父さん、私に財産の分け前をください」(12節)と言います。申命記21:17の規定により、長男は2/3、次男は1/3の財産分与を受けることになっていました。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産の話です。弟息子の心の中で父は死んだも同然なのでしょう。
 続いて17-24節です。 
 弟息子は我に返りました。ここは英語の聖書(KJV)では「he came to himself」(彼は彼自身に帰った)とありました。神様から造られた本来の彼に帰ったのです。
 さらに18・19節にこうあります。
『ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
 弟息子は父親のもとに行きました。これは改心(回心)を示します。神様の方に方向転換することです。すると「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)のです。ここで「憐れに思い」と訳されたギリシャ語は、以前にもお話ししましたが「スプランクニゾマイ」で、この言葉は「はらわた痛む」とも訳せる「痛みを伴い苦しむ相手への共感」を意味します。父が息子を見つけて走り寄るこの箇所には、出て行った息子を思う父親の強い愛情と喜びが溢れています。父はその喜びの理由として24節でこう言います。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と。これは先ほど福音書前に歌った聖歌540番の原曲「アメージング・グレース」の歌詞の一部になっています。 
 最後に25-32節です。
 ここでは兄息子の思いと父の思いが示されます。兄は「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できません。それに対して父親は「あなたのあの息子」を「お前のあの弟」(32節)と言い換え、「お前にとって彼は兄弟ではないか」と諭します。父は弟だけでなく兄にも愛情をかけているのです。

 イエス様は「なぜ自分が罪人を迎えて食事を一緒にしているか」といえば、それは、神様がこの放蕩息子の父のような方だから、ということです。神様は罪人が再び神様のもとに帰り、神の子として生きることを望んでおられる、だから私も罪人を招き、一緒に食事をしているのだ、というのです。
 本日の箇所も神様のもとに帰ること、つまり「悔い改めること」がテーマだと言えます。そして神様のもとこそ豊かで、そこに帰ることを神様は望み、そうするととても喜んでくださるのです。
 本日は、午後1時半から教会墓地で「逝去者記念の式」がありますが、そこで眠っている私たちの先人は、私たちより一足早く帰天した(天に帰った)方々です。言い換えれば、神様のもとに帰った方々であり、その方々と共に祈りを捧げるのです。

 ところで、今回この箇所を思い巡らして、気づき、感じたことがあります。
 それは、身を持ち崩し財産を使い果たした弟息子が父のもとに帰ると、父は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、温かく迎え入れたことです。これは父というより母の愛、母性の愛ではないだろうかと思いました。
 そのことで思い浮かべる言葉があります。それは「全能の神(エル・シャダイ)」という言葉です。「全能の神(エル・シャダイ)」とは、創世記17章で主なる神がアブラハムに「私は全能の神(エル・シャダイ)である」と告げた神様の名前です。受付で取っていただいたB5の「説教資料」をご覧ください。そこに「全能の」と訳された「シャダイ」(שַׁדַּי)は、「乳房」という意味の「シャド」(שַׁד)から派生してたことが記されています。生まれた子どもにとって母親の乳房には栄養や免疫など、生きるために必要なすべてが含まれているように、神様は私たちが生き生きと生きるために必要な物を与えてくださる。神様はそのように母性あふれる「全能の神(エル・シャダイ)」なのであります。

 「エルシャダイ」と題されたゴスペルミュージックがあります。本日は本田路津子のCD「My portrait」から聞いていただきます。資料の歌詞を見ながらお聞きください。

https://www.youtube.com/watch?v=gfciFCW_k00

 この曲の歌詞に「女奴隷のハガルにさえも憐れむお方 エルシャダイ」とありますが、アブラハムの子を宿した女奴隷ハガルが子のいない正妻のサラに疎まれ家を出たところ、「全能の神(エルシャダイ)」は御使いを遣わし、家に戻るよう告げました。神様はそのように憐れみ深いお方なのであります。

 私の人生を振り返っても、「全能の神(エルシャダイ)」はいつも私の傍らにいて良い方向に導いてくださいました。私は25歳のアドベントの頃に初めてこのマッテア教会を訪ねましたが、それは1980年(昭和55年)に初めて中学校に赴任し、そこが一学年10クラスもある大規模校で荒れていて、私は思い悩んでこの教会の扉を開いたのでした。教会の皆さん、そして神様は私を温かく迎え入れてくれました。また、県の教育委員会に務めていた時は、障害児の就学先を決める就学指導という重い仕事をしていて、昼休みに聖堂で独り祈りました。聖堂正面の「復活のイエス」は私を温かく包んでくれました。それは母性的な「全能の神(エルシャダイ)」だったと思うのです。

 私は明日の3月31日で定年退職し、このマッテア教会を去りますが、この教会、そして「全能の神」に心から感謝するものであります。

 皆さん、本日は大斎節第4主日です。私たちは自らを振り返り、この弟息子のように悔い改め、愛情深い「全能の神(エル・シャダイ)」のもとに帰りたいと願います。神様はいつも私たちと共にいたいと思っておられるのです。その恵みと神様のもとにある豊かさに気づきましょう。「全能の神」は私たちが神様のもとに帰ることを望んでおられ、そうすれば大変喜んでくださることをおぼえ、イエス様の復活を待ち望み、悔い改め(神様の方を向き)、イースターを迎える心の準備をして参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン