大斎節第3主日 『忍耐と慈しみの神に立ち帰る』
本日は大斎節第3主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書55:1-9、詩編63:1-8、コリントの信徒への手紙一10:1-13、ルカによる福音書13:1-9。説教では、「悔い改め(メタノイア)」の意味を知り、試練の時に共にいてくださる忍耐と慈しみの神に立ち帰り、御心に従う人生を歩むよう祈りました。
テーマと関係する「インクルーシブアート展」に出品された作品も紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は3月23日、私にとってはこの教会では今年度最後で、現役としての最後の礼拝です。70歳の定年まで聖務を果たすことができ、神に、そして皆様に感謝いたします。なお、4月以降の主日の礼拝について、こちらの教会では引き続き務めさせていただきますので、よろしくお願いします。
さて、教会の暦では本日は大斎節第3主日です。大斎節は灰の水曜日(今年は3月5日)から始まりましたので、そろそろ大斎節の半分に達しようとしています。本日の聖書箇所も大斎節にふさわしいものが選ばれています。
本日、与えられた聖書のみ言葉から、神様のみ心を尋ねて参ります。
福音書はルカによる福音書 13:1-9ですが、ルカは9:51からのエルサレムへの旅という枠組みの中に、種々の教えを配置し、イエス様の弟子としていかに生きるべきかが教えられています。
本日の福音書の最初のところに「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とありますが、これは比ゆ的な表現で、実際には、「あるガリラヤ人たちが神殿でいけにえを献げようとしていたところをローマ軍によって殺害された」、という事件のことを表しているようです。
次の「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」も実際の出来事を指していると考えられます。古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。どちらも当時のユダヤ人にとってはよく知られた出来事だったと考えられます。
イエス様はこの事件と事故についてそれぞれ、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。」また、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。」と尋ねておられます。
ここでイエス様が語られた言葉の背景には、当時の人々の考え方が大きく影響していました。それは、不幸なことと罪には、因果関係があるという考え方でした。不幸な出来事はすべて罪の結果であり、不幸が起こったのは、過去に何かの罪を起こした結果であり、それゆえに災難にあったと理解されていました。しかし、イエス様は「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言って、罪と不幸や災難を直接結び付ける、そのような考え方を否定し、私たち一人一人が悔い改めなければならないと言われたのです。
そして、イエス様は、なかなか自分を変えようとしない頑なな人々に対して「実がならないいちじく木」のたとえを話されました。このような話です。
「ある人がぶどう園に、いちじくの木を植えておき、実を探しに来たのですが、一つも見つかりません。そこで、園丁に言いました。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか。』と。すると園丁は答えました。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。』」
イエス様は、このように、たとえ話で話されました。イエス様は、何をどのように、たとえておられるのでしょうか?
このような解釈があります。
『「主人」とは神様で、「ぶどう園」とはイスラエルであり、「いちじくの木」とは、ユダヤ人を指している。「園丁」とは、イエス様のことであり、「3年間」とは、イエス様が人々の中でされた宣教活動の期間である』と。
神様は、イスラエルを選び、そこにいちじくの木、すなわちユダヤ人を置かれました。神様は、そこで、ユダヤ人の一人一人が実を実らせることを期待しておられたのです。ところが、そのいちじくの木は、神様の期待に応えようとせず、一つも実を実らせません。そこで、園丁であるイエス様を送って、期待に応えないユダヤ人を打ち倒せと命じました。するとイエス様は、「悔い改めるよう働きかけをしますので、しばらく待って下さい」と言って猶予を願い、神様に取りなしをした、というのです。
このたとえは、「神様は正しいお方というだけでなく、慈しみ深いお方でもある」ことを思い起こさせます。ここの重点は「裁きの厳しさではなく、ぎりぎりまで待つ忍耐」を示しているところにあります。
ここの箇所のキーワードは「悔い改め」だと思います。少し、この言葉について考えます。
悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」と言います。このギリシア語は「考えを変える」ことを表し、「回心(心を回す)」とも訳される言葉です。
ですから、「悔い改め(メタノイア)」とは、「悪いことをしました。もうしません」ということではなく、回心、つまり「神の方に向きを変えること」、「神に立ち帰ること」を意味します。本日の旧約聖書のイザヤ書55:7に「主に立ち帰れ 私たちの神に立ち帰れ」とある通りです。さらに言えば、「悔い改め」とは、今まで守れずにいた戒めを守るようにすることではなく、イエス様をこの世界に遣わされた神様の救いの御意志に心を向けることと言えます。「悔い改め」とは、生き方の根本的な転換のことです。
本日の使徒書についても見ていきます。コリントの信徒への手紙一10章では、1b~4a節で「私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセにあずかる洗礼を受け、皆、同じ霊の食物を食べ、皆、同じ霊の飲み物を飲みました。」とあるように「皆」という言葉が繰り返されています。これは5節で「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」と続けることで、皆が神様からの恵みを受けていながら大部分は滅ぼされてしまったという事実に注意を促しています。そして、パウロは11節で「これらのことが彼らに起こったのは、警告のためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためなのです。」と指摘しています。このように、過去の過ちに目を向けたのは、将来の救いを一層確実にするためです。さらに、13節でこう結論づけています。
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
有名なみ言葉で、多くの方がこの言葉で救われてきました。ここで「試練」と訳された元のギリシャ語は「ペイラスモス」で、英語の聖書では「test(試み)」や「temptation(誘惑)」とありました。「試み」の出来事は、見方によって誘惑にも試練にもなると言えます。悪魔や人からされるのが誘惑であり、神からされるのが試練です。第一コリント10:13のこのみ言葉の場合は、「試練」と訳されているように神から与えられた試練であります。神様は耐えられない試練に遭わせることはない、試練と共に逃れる道をも備えてくださると言うのです。ここの「逃れる道」はギリシャ語では「エクパスィス」で「エクソドス(出エジプト)」に由来する、「出口」「脱出」とも訳せる言葉です。英語の聖書では「the way out」とありました。神様は試練を与えることはありますが、そこから脱出する出口も備えてくださる慈しみ深いお方なのであります。
ところで、現在、3月20日(木)~25日(火)まで、ララパークスエヒロと高崎中央公民館で「インクルーシブアート展」が開かれています。私は初日に行き、そこでこの作品に出会いました。

Art onに週一度通ってくる「ほの花さん」という方の作品です。繊細なタッチのペン画です。左に少女が立ち、長い髪から多くの小さな少女の顔や花やキノコが派生しています。別の世界につながる出入口のような物の存在を感じさせる魅力的な絵であると思います。この方のことについて私は何も知らないのですが、何らかの障害や試練があるのかもしれませんが、神様は絵を描くという賜物を与え、そこに出口・逃れる道を備えたのだと思います。そして、「インクルーシブアート展」にはこの方以外にもArt onの作家の作品が新しい方法で展示されていますので、ぜひに来場してご覧下さい。Art onに集う皆さんが自分の賜物を発揮できるのは、それを支える「工房あかね」が神様の方向を見て神様に立ち帰っているからだと思うのです。
皆さん、私たちは、困難や試練の時に共にいてくださる神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う人生を歩んで参りたいと思います。
大斎節も半ば近くとなりました。大斎節は、自分自身の信仰のあり方を吟味する時です。心から悔い改め、心の転換を図り、祈りと克己(こっき)に努める時でもあります。
試練の時に共にいてくださる忍耐と慈しみの神様に信頼し、神様の方を向き神様に立ち帰り、御心に従う生活をし、復活の喜びの日を迎えることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン