大斎節第2主日 『神に帰り、主イエスに会う』
本日は大斎節第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
創世記15:1-12・17-18、詩編27、フィリピの信徒への手紙3:17-4:1及びルカによる福音書13:31-35。説教では、自分を振り返り、神の国に入ることを願っているかどうか吟味するとともに、どのような状況であっても神に帰り、そこで主イエスに会うことができるよう祈り求めました。
テーマと関係するアメリカの女流作家、オコナーの書簡も紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は大斎節第2主日です。大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。
本日は、まず特祷についてお話しします。先ほどこう祈りました。
「全能の神よ、私たちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。どうか外は私たちの体を、内は私たちの魂を守り支えてください。そして体を襲うすべての災いと、魂を襲う悪しき思いから、私たちをお守りください。父と聖霊とともに一体の神であって、世々に生きすべてを治めておられる私たちの主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
本日の特祷は冒頭で「全能の神よ、私たちには自らを助ける力のないことをあなたは知っておられます。」と告白します。この告白が意味していることは「私たちの救いの根拠はどこにあるのか」ということを知っているということです。私たちには自らを助ける力はないが、神にはそれができる、つまり、私たちの救いの根拠は神である、ということを確信していることを示しています。それは、言い換えれば、イエス様の十字架の犠牲の死によって救いに与ることができるということです。そして、続いてこの後、「体を襲うすべての災いと、魂を襲う悪しき思いから、私たちをお守りください。」と祈ります。体を襲う災い、魂を襲う悪しき思い、これらから守って下さい、と祈ります。私たちの人生には災いや悪しき思い等の現実が押し寄せてきて、それらは私たちを神から離れさせことにもなります。それは先主日の「荒野の誘惑」のようなもので、その力は小さくありません。私たちにはそれに対抗する力がないことを知っているがゆえに「私たちをお守りください」と祈るのです。この祈りには、神様は必ず救ってくださる、助けてくださるという強い信仰があると言えます。私たちもこの祈りを心からしたいものであります。
次に、本日の福音書箇所、ルカの福音書13章31節から35節について学びたいと思います。
どのような状況の箇所かは、今回の箇所の直前の13章22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」と。
イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレム。エルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。今回の箇所はそのエルサレム途上の出来事です。
31節以下を解説を加えてお話しします。
イエス様のそばに来たファリサイ派の人々はイエス様に立ち去ることを命じます。その理由は「ヘロデがあなたを殺そうとしてい」るからと言いますが、それは彼らのイエス様に対する無理解を示しています。ヘロデがイエス様を殺そうとしている事実はないのですから。それに対してイエス様はあの狐(ヘロデ)に「悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない」と伝えるように言います(32節)。
イエス様はエルサレムで起ころうとしている自身の十字架について33節でこう言っています。「ともかく、私は、今日も明日も、その次の日も進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と。
ここの「進んで行かねばならない。」の「ねばならない」は、ギリシア語では「デイ」という言葉で、神様の御計画とか願いを表す言葉です。イエス様が「今日も明日も、その次の日も進んで行」くことは神様が決めた道です。ここではイエス様の並々ならぬ決意を感じます。
さらに35節はこうです。
「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることはない。」
ユダヤ人たちに対して「見よ、お前たちの家は見捨てられる。」と言っています。「家」とは心の拠り所。ここの「お前たちの家」とはイエス様の誕生の頃にヘロデ大王が拡張したエルサレム神殿のことです。それが崩壊すると予言しているのです。また、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』は、イエス様がエルサレムに入城する際、弟子の群れが神様を賛美して叫んだ言葉です(ルカ19:38)。「主の名によって来られる方(メシア)」が祝福される時(イエス様のエルサレム入城)を願い、その時までイエス様を見ることはできないというのです。 エルサレム神殿が崩壊する。それはなぜでしょうか?
その答えは34節にあります。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
ここのエルサレムとはユダヤ人のことです。神様は「めんどりが雛を羽の下に集めるように」慈しんだのに、ユダヤ人はそれに応じようとしなかったから「神殿が崩壊した」というのです。この言葉は断罪のように響きますが、そうではなく、嘆きの言葉です。その嘆きは「悔い改め」を求めておられると考えられます。悔い改め、言い換えれば「回心」、それは神様のもとに帰るということです。
このような箇所でした。
本日の箇所から、神様が私たちに求めておられるのはどのようなことでしょうか?
この箇所でイエス様は、「めんどりが雛を羽の下に集めるように」私たちを集めようとされましたが、聖書では羽は神の守りのしるしで、その羽の下がいかに幸いであるか多くの詩編で詠われています。例えば、詩編17編8節「瞳のように私を守り あなたの翼の陰に隠してください」や、詩編5編2節「私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまで あなたの翼の陰に私は逃れます。」があります。神の翼のもとは安らぎに満ち、神の翼のもとに身を置くことで災いが過ぎ去るまで安全に過ごすことができるというのです。
「めんどりが雛を羽の下に集めるよう」な愛情で神様は私たちをも慈しんでおられます。その神様が統治する国が「神の国」「天の国」です。それは私たちの住み家である家(ホーム)です。
本日の旧約聖書、創世記15章5節で、主はアブラムを外に連れ出しますが、それは神様が「自分の世界」から「神の世界」へ移動させたということと考えられます。神の世界は「神の国」「天の国」のことです。また、10節で、アブラムが捧げ物(生け贄)の家畜を切り裂き向かい合わせに置いたことが記されていて、血が流されたことを想起しますが、これは神と人の古い契約(旧約)です。これは新約におけるイエス様の十字架の予徴です。さらに18節で、主がアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われましたが、この土地とは新約においては「神の国」「天の国」のことと考えます。
本日の詩編27編で詩編作者が願い、求め続けた一つのこと、それは4節に表れています。命の限り「主の家」に住むことであり、その「主の家」こそ「神の国」「天の国」のことだと言えます。
本日の使徒書に目を向ければ、フィリピの信徒への手紙3章20節にこうあります。「私たちの国籍は天にあります。」と。私たちの本来の住み家である国は「天の国」、それはつまり「神の国」なのであります。それこそが私たちの本来の家(ホーム)です。その神の家に帰ることを神様は私たちに求めておられます。神に帰ること、それが「悔い改め」であり、「回心」です。神様が私たちに求めておられるのはこのことであると考えます。
「回心」ということで思い浮かべるアメリカの女流作家がいます。それがフラナニー・オコナーです。

受付で取っていただいたB5の資料をご覧ください。
フラナニー・オコナーは1925年にアメリカ南部のジョージア州で生まれ、1964年に難病の狼瘡のため15年間の闘病の末、39歳で逝去しました。狼瘡は、脚と顔の下半分の骨が柔らかくなる病気であり、彼女の父親もこの不治の病で亡くなっています。彼女はアメリカ南部では珍しい熱心なカトリック信徒でした。オコナーにとって、書くことと信仰は密接に結びついていました。彼女は「回心」、つまり「登場人物の変化」を、優れた文学の唯一の真の主題として記しました。
彼女は膨大な手紙を残していますが、それはこの本『The Habit of Being(存在することの習慣)』にまとめられています。

この中で、1956年6月の手紙にこうあります。
("I have never been anywhere but sick.In a sense sickness is a place, more instructive than a long trip to Europe, and it's always a place where there's no company, where nobody can follow. Sickness before death is a very appropriate thing and I think those who don't have it miss one of God's mercies,")
日本語訳で紹介します。
「私は病いから離れてどこかへ出かけていくことはできませんでした。ある意味で、病いは一つの場所のようなものであり、ヨーロッパへの長旅よりも多くのことを私に教えてくれます。その場所に旅の道連れはいませんし、誰もついて行くことができません。死の前に病いがあるということはとてもふさわしいことであり、そこに神の憐れみがあるとしか私には思えません。」
彼女は、病いが多くのことを教え、「死の前に病いがあることをとてもふさわしい、それは神の憐れみである」と言っています。
この精神はネガティブ・ケイパビリティと思われます。ネガティブ・ケイパビリティとは、不確実な状況や答えのない問題に直面した際に、すぐに結論を出そうとせずに、その状態を受け入れる能力のことを言います。オコナーは「死の前に病いがあること」を受け入れています。彼女がそのような力を得たのはなぜでしょうか? それは自身のカトリックの信仰により、病いの中で神様に帰り、そこで主イエス様に会うことができたからと考えます。その場所こそ「神の国」「天の国」であります。
先ほど福音書前に歌った聖歌434番「深い悩みの世の中にも」の1節にこうあります。
「深い悩みの世の中にも 聖なる者の集いに入り
主イエスのもとにわれ招かれ 喜び満つる宴につく
ああ すばらしい 天(あま)つ み国の われらの家」
天のみ国であるわれらの家の素晴らしさ、また、それをこの地上で先取りする「聖なる者の集い」である教会、そこで行われる「喜び満つる宴」である聖餐式等を高らかに謳っています。
なお、この聖歌のオリジナルは唱歌「埴生の宿(Home, Sweet Home)」です。
「天の国」「神の国」であり、「ホーム」の現在における場所が教会です。私はこの3月末で定年退職し前橋の教会から離れますが、皆さんにはこれからもここが「住み家」であり続けるよう、前橋聖マッテア教会が「神の国」の先取りとなりますよう祈るものであります。
皆さん、すべての人は自分にとっての「ホーム」を求めています。そして、ここに、手を広げ私たちを慈しみ招いているイエス様がおられ、神様が統治する国があります。それが「神の国」です。それこそ私たちが籍を置く家(ホーム)です。教会はその現在における場所であります。
この大斎節の期節に際して、自分自身を振り返り、「神の国」について正しく理解し、そこに入ることを願っているかどうか、吟味したいと思います。そして、どのような状況であっても神様に帰り、そこで主イエス様に会うことができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン