マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第5主日聖餐式 『復活であり命であるイエス様を信じる』

 本日は大斎節第5主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、ローマの信徒への手紙6:16-23とヨハネによる福音書11:17-44。イエス様が彼岸と此岸を一つにする方であることに気づき、復活と命であるイエス様を信じ、全面的に信頼し、日々委ねて過ごしていくことができるよう祈り求めました。
 この福音書の箇所を描いたレンブラントの油彩「ラザロの復活」についても言及しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第5主日です。福音書個所は大斎節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。今日の箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死から命へ」と移されていく「ラザロの復活物語」です。使徒書は、かつて「罪の奴隷」であった人々が、今は「義の奴隷」「神の奴隷」となり、永遠の命へと至る者となったと記す聖パウロの言葉がとられています。

 福音書を中心に考えます。ここはヨハネによる福音書11章1節から44節までの(1節から16節までは、朗読が省略されていますが)非常に長い、ヨハネ福音書に7つある奇跡物語の最後のものです。
 この話を簡潔に言えば、ベタニアという村に住んでいたマルタとマリアの兄弟ラザロが、病気で死に、死後4日も経って、イエス様が、このラザロを甦らせた、生き返らせたという、死者を復活させた物語です。

 本日の福音書で注目したい箇所が4つあります。
 まず25・26節です。『イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』
 イエス様は「私は復活であり、命である」とおっしゃっています。「私は復活する」とおっしゃったのではありません。「私が復活させる」とおっしゃったのでもありません。「私は復活であり、命である」とおっしゃったのです。つまり、イエス様が復活そのもの、命そのものであるというのです。 こうして、旧約聖書の倫理に生きるユダヤ人であるマルタに、復活とは何か、永遠の命とは何かということを明らかにされています。つまり、それはイエス様の命をいただくことである、ということです。。 
 イエス様は続けておっしゃいました。「私を信じる者は、死んでも生きる」と。「私を信じる」=イエス様を信じる。イエス様が復活そのものであり、命そのものである。だからそのイエス様を信じるなら永遠の命をいただくことができるというのです。「信じる」というのは、聖書では全面的に信頼する、自分を委ねる、という意味です。預ける、と言ってもよいでしょう。「死んでも生きる」とは「永遠の命」を生きるということです。 
 そして「このことを信じるか。」つまり、イエス様を信じ、イエス様を全面的に信頼し委ねているか? それがマルタに問われます。そしてそれは、マルタに限らず私たちにも問われていることであります。

 続いて27節です。『マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」』
 マルタが応えたこの言葉「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」‥‥これは信仰告白の言葉です。「イエス様、あなたこそキリストである、救い主である」と信仰を告白しているのです。この信仰告白をしたのは、新約聖書に記されている女性でマルタただ一人です。マルタはマリアと比べて、イエス様の言葉を聞かず忙しく働くだけの女性と思われがちですが、実はこのように信仰深い女性なのです。私たちも「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」と答えることができればなんと幸いなことでしょうか。

 次に、35節です。『イエスは涙を流された。』
 聖書で最も短い節とも言われています。英語(NIV)では、Jesus wept. でした。
 福音書の中でイエス様が「涙を流された」あるいは「泣いた」と記されているのは、ルカ19章41節とこの箇所だけです。イエス様が大変人間的で、印象的な箇所です。本日の福音書の33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表す言葉です。俗な言い方をすれば「イエス様は情に厚い」ということがよく分かります。

 最後に、43・44節です。
『こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。』
 この箇所は多くの画家が描いていますが、本日は、レンブラントの「ラザロの復活」を取り上げます。

 この絵は、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫んだ瞬間のイエス様が、口を開き右手を挙げた状態で描かれており、イエス様の激しい思いが感じられます。集まっている人々は、ラザロが生き返るのを驚いて見つめています。その中で、マルタとマリアは、身振りと表情により眼前で起きていることへの畏敬を表しています。最も明るく照らされているのは、両手を掲げて前に身体を乗り出すマルタの顔で、付随した光線がイエス様の顔を照らし、甦りつつあるラザロを薄明りに包んでいます。
 福音書に戻ります。この箇所の前、40節でイエス様は言われました。「もし、(私を)信じるなら、神の栄光を見ると、言ったではないか」と。「神の栄光」とは、「神の臨在」、神様がそこにおられること、神様の力、神様の働き、み業を表します。
 マルタとマリアの兄弟、ラザロが、死んでいたラザロが、甦ったという奇跡は、そこに、神様のみ業が現れた、神様のみ力が示されたことを意味します。そのために、ラザロは、神様がイエス様によって人々に示された、神様の力を現されるための道具となり、器となったのです。
 「ラザロの復活」は、単なる超能力による奇跡ではなく、涙を流したイエス様の深い共感・あわれみから起こった出来事であります。このイエス様の思いの中にこそ、「死を超える命」が輝くと言えるかもしれません。イエス様に倣う私たちが、人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われているようにも思います。

 この「ラザロの復活」で神様は何を私たちに伝えようとしているでしょうか?
 本日の使徒書にこうあります。ローマの信徒への手紙6:23です。
「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命なのです。」
 私たち人間は誰も皆罪人で、死に値するものです。しかし、十字架と復活によって罪と死に勝利され、「復活であり、命である」イエス様を信じるならば、たとえ「死んでも生きる」のです。永遠の命に満たされ、真に人間らしく、生き生きと力強く生きることができるのです。そして、永遠の命は死んで始まるのではなく、イエス様を信じることで与えられずっと続くのだ、そのことを私たちに伝えようとしているのではないでしょうか? 

 ところで、先週、日本ではお彼岸という年中行事がありました。私も実家の墓参りに行ってきました。「彼岸」とは向こう岸を意味する言葉で、迷いの多い此岸(この世)に対して、仏の理想の世界である向こう岸、つまり悟りの世界や浄土のことを言います。日本では、その浄土に渡るために、善事を行い、先祖に思いを馳せ、供養を行う期間を「彼岸」と言うようになりました。なお、「極楽浄土」が西方にあり、春分秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いを馳せたのが彼岸の始まりとのことでした。
 今日の福音書で言えば、私たちは、川のこちらの岸(此岸)にいて、イエス様が語っておられるのは向こう岸(彼岸)のことと考えられます。こちらの岸と向こう岸を分けて考えるイメージは、今の日本だけでなく、当時のユダヤの人々にも共通するイメージかもしれません。生きているときは私たちはこちらの岸(此岸)にいるけれど、死ぬと向こう岸(彼岸)に行き、そして戻って来ることができなくなる、しかし向こう岸(彼岸)には神様が待っていてくださるというイメージです。イエス様が語っておられるのはそうではなく、イエス様がいてくださることによって、此岸と彼岸の区別はなくなってしまうということであると言えます。死は、私たちがどちらの岸にいるのかということをはっきりさせるしるしだと思います。岸のこちらからあちらに移ると、もう二度と戻って来ることはできない。だから死はたいへん恐ろしいことと私たちは感じるのです。ところがイエス様を信じる者は永遠の命に生きているので、どちらの岸もイエス様によって継ぎ目なく一つにされてしまうから、自分が今どちらの岸にいるかということなど心配しなくてもよいのだ、ということを、イエス様は、そして神様は伝えているように思います。

 皆さん、イエス様が彼岸と此岸を一つにしてしまう方であることに、私たちは気づきたいと願います。そして、復活と命であるイエス様を信じ、全面的に信頼し、日々委ねて過ごしていくことができるよう祈り求めたいと思います。