マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第3主日 聖餐式『主の来臨を待ち望み、証しをする』

 本日は降臨節第3主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一5:16-28、詩編126とヨハネによる福音書  1:6-8、19-28です。
 説教では、イエス様が私たちの間にいることを知るとともに、主の来臨を待ち望み、主から光を受けキリストを証しできるよう祈り求めました。
 また、本日のテーマに関係して「キリストの証人」であるウィリアムズ主教について言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降臨節第3主日です。アドベント・クランツのろうそくも3本目に火が点りました。
 降臨節待降節)第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。今日の使徒書の冒頭、テサロニケの信徒への手紙一5章16節にも「いつも喜んでいなさい」とあります。これを含む5章16-18節が有名です。こうです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて 神があなたがたに望んでおられることです。」
 世界ではウクライナパレスチナで戦争があり、国内では議員の金銭にまつわる不正があり、インフルエンザやコロナの感染もある中で、喜んでいることはなかなかできませんが、喜ぶことを目標に祈りと感謝を捧げることに努めたいと思います。それが神様が私たちに望んでおられることだからです。
 さて、本日の福音書ヨハネによる福音書1:6-8、19-28で、大きく2つの部分からなっています。このような話です。
 話の前半でのヨハネ 1:6-8では、これを書いた福音書記者ヨハネは、洗礼者ヨハネについて、「神から遣わされ、証しのために来た」と述べます。「証し」とは、キリストの光を反映する役割を指します。洗礼者ヨハネは、「光ではなく、光について証しするために来た」ということを強調しています。
 続いて後半(19-28)です。ここは、エルサレムユダヤ人たち(当時の宗教指導者)が、突然現れた洗礼者ヨハネに対して、祭司やレビ人たちをヨハネに送って、「あなたは、どなたですか」と、ヨハネの言わんとするところを聞いてくるように、ということでヨハネがこの弟子の質問について答える部分です。洗礼者ヨハネは「私はメシア(ギリシャ語原文はキリスト)ではない」「エリヤでもあの(モーセのような)預言者でもない」と言い、さらに尋ねられるとイザヤ書40章3節を引用し「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」と言いました。道を整える者であり、声のように消えていく者だというのです。さらに「なぜ、洗礼を授けるのですか」という質問に対して、ヨハネは、それには直接答えず「私は水で洗礼を授けているが、私の後から来られる方がおり、私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」というような話をしたのでした。

 本日の箇所から特に「証し」について考えたいと思います。 
 洗礼者ヨハネは「光について証しをするため」(1:8)に来ました。この光は、物理的な光ではなく、救い主であるイエス様であると考えられます。
 「証しをする」は原語のギリシャ語では「マルテュレオー」です。この動詞は「事実や出来事を確証し、証しする」の意味で使います。新約聖書では、証しする内容や対象がイエス様である用例がほとんどですが、その場合、イエス様の生涯に起こった出来事を単純に「証しする」だけではなく、イエス様は誰なのか、その本質はどこにあるのかを「証しする」ことをも含んでいます。
 また、「証し」はキリストの栄光を明らかにすることですから、自らの行いによってキリストを証しすることができます。そのような「証し」はイエス様が誰なのかを「告白する」ことと同じです。そして、それは洗礼者ヨハネだけでなく、私たちキリスト者にも言えることです。キリスト者は神の業を証しし、告白する者なのであります。
 「キリストの証人(あかしびと)」という表現があります。自分の人生、生涯を通して、キリストを証しした人です。
 洗礼者ヨハネは、自身は光であるキリストではなく、光であるキリストを証しするためにこの世に遣わされた人です。それが彼の使命です。イエス様と一緒に活動することではありません。イエス様の本質を指し示し、信じるように呼びかけるのが彼の役割です。ヨハネによる福音書3章30節に「あの方は必ず栄え、私は衰える。」とありますように、洗礼者ヨハネは自らは消え行く者として生きました。彼は、後から来るキリストを指し示した「キリストの証人」であったと言えます。
  
 洗礼者ヨハネのように、自分ではなくキリストを証しした人で、思い浮かぶ人物がいます。それは、私たち日本聖公会の初代主教であるウィリアムズ主教です。
 ウィリアムズ主教は、日本各地にいくつかの教会を立て、また立教や立教女学院などの学校を創立するなど、日本の宣教と教育の発展に、力を尽くしました。ウィリアムズ主教の生き方を表した有名な言葉に「道を伝えて己を伝えず」があります。この立教ブックレット1の表題「立教の創立者 C.M.ウィリアムズの生涯」のサブタイトルにも「道を伝えて己を伝えず」とあります。

 この言葉はウィリアムズ主教の人生を表した言葉です。日本で伝道した50年間、「道を伝えて己を伝えず」、つまり、キリストの道を伝えて自分を伝えることをしなかった、ウィリアムズ主教のそういう生き方を表した言葉であります。
  ウィリアムズ主教は、生涯独身で、謙遜と清貧に生きた「キリストの証人」で多くのエピソードが残されています。この本の中にもあるいくつかを紹介します。
 その一つはこうです。当時、米国聖公会の主教の月給は、現在の価値で約150万円だったそうですが、ウィリアムズ主教は、月約6万円で生活し、残りは全部、教会や学校を立てるために献金したそうです。東京聖三一教会や3年前のNHKの朝ドラ「エール」で豊橋の教会として登場した現在明治村にある京都の聖ヨハネ教会も彼の献金で建築されたそうです。そして、そのことを公にしないように言っていたそうです。
 また、こんなエピソードもあります。神戸から船で横浜に向かっている時、ウィリアムズ主教が、あまりにもみすぼらしい服を着ているので、知人の船長が、「服は裏返すと新しく見えますよ」と教えました。するとウィリアムズ主教は、「この服は既に裏返した後で、また古くなったのです」と答えたそうです。立教大学のチャペル前にウィリアムズ主教の銅像がありますが、その銅像でもこの一着しかない服を着ていたのです。
 これらのエピソードは、まるで、先主日福音書にあった「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、ばった(以前の訳は「いなご」)と野蜜を食べていた」洗礼者ヨハネのようです。
 私たちもまた、洗礼者ヨハネやウィリアムズ主教のように、キリストを指し示しキリストを証しする使命が与えられているのだと思います。

 本日の福音書箇所では、特に26節の言葉に注目したいと思います。そこには「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」とあります。「あなたがたの知らない方」とは、人間の知識や経験を超えた方という意味です。そして、「あなたがた」という言葉は、「私たち」と受け止めてもいいと思います。私たちの知らない方(私たちの知識や経験を超えた方)が、私たちの知らない間に、すでにおられるというのです。ここは原文では完了形が使われています。それは、「救い主(キリスト)はすでに私たちの間におられるのだ」ということです。これがクリスマスの出来事につながる大切な言葉であると思います。神様は私たちのために、救い主イエス様を派遣してくださった。そのことが、私たちに分かるのがクリスマスという時なのであります。
 
 あと1週間ほどでクリスマス(降誕日)を迎えます。私たちも洗礼者ヨハネが指し示す方、救い主であるイエス様を仰ぎ見ましょう。そして、イエス様である光により私たちの内にある闇が照らされることに感謝するとともに、御子が誰であるかを知り、お迎えできるよう、心の備えをしていきたいと思います。 皆さん、イエス様は私たちの間におられます。主の来臨を待ち望み、それぞれの場で主から光を受け、キリストを証しできるよう祈り求めて参りたいと思います。 

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン