マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第2主日 聖餐式『イエス様へ方向転換』

 本日は降臨節第2主日。新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、イザヤ書40:1-11 、詩編85:7-13 とマルコによる福音書1:1-8。
 説教では、洗礼者ヨハネが説いた「悔い改め」や「洗礼」の意味を知り、イエス様へ方向転換しイエス様と結ばれ神様のものになるよう祈り求めました。
 岩城聰先生のご本から洗礼の意味の確認もしました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 イスラエル軍ガザ地区への激しい戦闘が続いています。女性や子どもなど、多くの民間人の被害が広がっています。ベツレヘムの教会には瓦礫の中に幼子イエスが眠るクリブが置かれているというニュースがありました。国連安全保障理事会ではアメリカが拒否権を発動して即時停戦の決議が否決されました。一刻も早い恒久的な戦闘停止がなされるよう祈っています。

 本日は降臨節第2主日です。この日には毎年、洗礼者ヨハネのことが福音で読まれます。
 本日の福音書箇所は、マルコによる福音書1:1-8です。ここの聖書協会共同訳聖書の小見出しは「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」です。先程福音書朗読の前に歌った聖歌61番は、この箇所を歌った聖歌です。
 本日は、この箇所の前半にスポットを当て、洗礼者ヨハネが説いた「悔い改め」や「洗礼」の意味を中心に、神様と私たちとの関係等について思い巡らしたいと思います。

 今日のマルコによる福音書1:2の「預言者イザヤの書に」ある「見よ、私はあなたより先に使者を遣わす。彼はあなたの道を整える。」の「私」は天上の神様、「あなた」はイエス様、「使者である彼」は洗礼者ヨハネと考えられます。続いて3節に「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ。』」とありますが、これが洗礼者ヨハネの、使命であり、そのまっすぐにされた道を、イエス様は通って私たちのもとに来られるのです。
 この「主の道を備え、まっすぐにせよ」というのは、先ほどお読みしましたイザヤ書40:3に書いてあることですが、この道は何の道かと言いますと、元々はバビロン捕囚にある、苦しみの中にあるユダヤ人が、イスラエルに戻るために、神様が整えてくださる道のことを、言っているのです。その道を通って、イスラエルに戻っていくことができる、そういう道です。洗礼者ヨハネが言っている道も、その道を通って、イエス様の救いに与るように、神様が整えてくださる、そういう意味でこのイザヤ書の箇所が選ばれているのだと思います。
 なお、本日の旧約聖書イザヤ書40:1-11の前半の1節から5節は、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の冒頭で歌われている箇所です。序曲に続いてテナーが「Comfort ye, comfort ye my people, (慰めよ、汝らよ。私の民を慰めよ、汝らよ)」と歌い出し、5節でコーラスが入ります。本日午後3時から高崎市文化会館で群馬大学管弦楽団・合唱団による「メサイア」のコンサートがありますが、行かれる方はぜひここを注目してほしいと思います。

 福音書に戻りますと、マルコによる福音書1:4に『洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。』とあります。
 洗礼者ヨハネは「裁き」ではなく、「悔い改めの洗礼」を宣べ伝え、主の到来に備えるように呼びかけたのです。ここの「悔い改め」は原語のギリシア語では「メタノイア」であり、聖書がこのギリシア語を用いる場合、「生き方全体の根本的な転換」を指しています。この語の背景にはヘブライ語のシューブ〈向きを変える・立ち帰る〉があります。聖書の述べる「悔い改め」は「神の業にあわせて向きを変えること」、つまり「神に立ち帰ること」を意味します。さらに言えば、旧約聖書の「悔い改め」は、神様の定めた正しい道である「律法」への回帰でしたが、新約聖書では「神の子イエス様」へと立ち帰ることです。ですから、キリスト教の「悔い改め」とは「悪いことをしました。もうしません」と言うことではなく、イエス様を知りイエス様を信じて従い、自らの人生の中心にイエス様を置くこと、つまり、生きていく方向をイエス様に向けるということなのです。従って「悔い改め」と「信仰」と「イエス様に従う」というのは、同じ事柄の別の側面と言えるのであります。

 では、洗礼とは何でしょうか? 前橋の教会ではクリスマスの翌日にご自宅での洗礼式が予定されています。この機会に私たちも自分が洗礼を受けたときのことに思いを馳せ、洗礼の意味を確認したいと思います。
 祈祷書の中の教会問答(P.262)にはこうあります。
『16.問 洗礼とは何ですか
 答 聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です』
 これだけでは分かりにくいと思います。先日、洗礼を希望する方のために使用した岩城聰(あきら)司祭の「聖公会の教会問答」の中にこうあります(P.100)。

『洗礼には、①罪の赦しと清め、②イエス・キリストの死と復活にあずかる(新生)、③共同体への迎え入れ(キリストの枝に連なる、④聖霊の賜物、⑤キリストの祭司職にあずかる、といういくつかの意味があります。』
 ここでは洗礼の意味について5つが示されていますが、この中の二番目に「キリストの死と復活にあずかる」ということが挙げられいます。
 「キリストの死と復活にあずかる」ということについて、パウロはロマ書6:4でこう言っています。
『私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。』
 パウロは、洗礼によってキリストと共に古い自分が死に、キリストが父なる神により復活させられたように私たちも新しい命に生きることができる、と言っています。 

 洗礼とは、聖霊によって私たちが主イエス・キリストと一致し、新しく生まれる聖奠(目に見える神の恵み)です。端的に言えば、洗礼とは「私たちが主イエス・キリストに結ばれることであり、私たちが神様のものとなる」ということです。洗礼によって、イエス様と結ばれ神様のものになるのであります。それにより、自分自身を中心とする生き方から、主イエス・キリストを中心として生き、考え、行動する生き方へと方向転換されるのです。

 その際、私たちに求められていることは何でしょうか? 
 それは本日の旧約聖書イザヤ書40:8に示されていると考えます。ここに「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」と述べられているように、私たちはこの力ある神の言葉に信頼することが求められているのだと考えます。本日はバイブルサンデーと言われる主日ですが、神の言葉は聖書に書かれており、聖書を読むことで神の言葉、神と出会うことができるのです。
 既にお話したように、「悔い改め」とは、生きる方向をイエス様に向けるということです。しかし、この方向転換は人間の努力で引き起こされるのではありません。神の言葉に信頼し神と出会うことが、それを引き起こすのです。

 皆さん、イエス様の到来と共に、神様の声が響き、聖霊の力に包まれて生きる新しい時代が始まりました。洗礼者ヨハネは先駆けとして、神の子イエス・キリストが現れるその時が目の前に迫っていることを告知しました。洗礼者ヨハネを動かしている神様へと目を上げることが、救いを待ち望む力となります。私たちが神様を見上げ、イエス様の方へ方向転換し、イエス様と結ばれ神様のものになることができるよう祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン