マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『国分友里恵「Nobody knows-わが悩み知りたもう-」に思う』

 前々回のブログでロジェ・ワーグナー合唱団の黒人霊歌「汝はそこに(Were you there?)」について思い巡らしました。黒人霊歌(The Negro Spiritual)で私が思い浮かべるのはこの曲、「Nobody knows」です。私はこのCD「国分友里恵「Nobody knows-わが悩み知りたもう-」で聞いています。

 このアルバムは下のURLですべて聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=ab-J-uY-des

 国分友里恵は1983年にJポップスのシンガーとしてデビューしました。1995年には夫である岩本正樹との楽曲で歌詞を書いた、中山美穂の「ただ泣きたくなるの」がミリオンセラーとなり、作詞家としても活動を開始しました。1996年以降は、クリスチャンとしての活動を始め、その3枚目のアルバムとして「Nobody knows-わが悩み知りたもう-」をリリースしました。

 このアルバムの2曲目「Nobody knows-イエスだけが知っている-」の歌詞はこのようです。

Nobody knows the trouble I've seen, Nobody Knows but Jesus,
Nobody knows the trouble I've seen, Glory Hallelujah!

心を蝕む おお、主よ  争い苦しむ おお、主よ
世界は今にも おお、主よ  潰されそうです おお、主よ    

誰にもわからない 悩み悲しみ
イェスだけが知っている Glory Hallelujah!

天は開かれた おお、主よ  わたしの上にも おお、主よ
愛は舞い降りて おお、主よ  サタンは逃げ去る おお、主よ
イェスの憐れみで おお、主よ

誰にも  悩み悲しみ
イェスだけが知っている Glory Hallelujah!

 国分友里恵は、この後、2009年に賛美歌を親しみやすい現代語に訳した3枚組のアルバム「現代賛美歌」を発表しますが、この曲「Nobody knows-イエスだけが知っている-」でも、現代人にアピールする訳を心がけていたことを推察します。
「Nobody knows the trouble I've seen, Nobody Knows but Jesus,」を
「誰にもわからない 悩み悲しみ イェスだけが知っている」と訳しました。 人にはわからない悩み悲しみもイエス様だけは共にいて分かってくださる、という福音(ゴスペル)が伝わってきます。

 私のこれまでの人生を振り返っても、いつもイエス様は共にいてくださいました。今回は年頭でもあり、少し自分のことを記します。
 私は1981年のイースターに洗礼を受けました。信仰歴は42年になります。キリスト教との出会いは入学した大学が、たまたまキリスト教主義学校立教大学)だったことです。入学式や卒業式での祈りに接し、クリスマス行事のキャロリング等には参加していましたが、自分がキリスト者になるとは思ってもいませんでした。卒業後、群馬県の山間部の小学校に赴任し3年を過ごし、そこではなんとか務めることができました。しかし、その後、都市部の中学校の教師になった時、その学校がかなり荒れていて、学級経営もうまくいかず、つらくて自分が学校に行けないときもありました。どう対応したらいいか悩み、「自分の発想ではどうにもならない」と思いました。魂の飢えも感じていました。そんな折、大学で受けたキリスト教教育を思い出し、それこそが真実の教育であると思い、もっとキリスト教を知りたいと考え、出身大学と同じ聖公会の教会の門をくぐりました。それがアドベントの頃で、通って行くにつれ希望が見え、魂の飢えも満たされてきました。自分の無力さを知り悔い改め、神にすべてを委ねて、神に従って生きていくよう導かれました。そして次の年のイースターに洗礼を受けました。それ以降、「イエス様の教え、キリスト教精神で生徒たちに接しよう、教育に当たろう」と考え、実践しました。
 その後、特別支援教育に移り大学の附属学校や教育委員会など様々な職場で働き、定年退職後、神学校入学の道が示され、聖職に按手されました。その間、悩みや悲しみ、迷うこと等もありましたが、いつもイエス様は私と共にいて、支え導いてくださいました。

「Nobody knows the trouble I've seen, Nobody Knows but Jesus.(誰にもわからない 悩み悲しみ イェスだけが知っている)」
 まさにその通りだと実感しています。皆さんにもそのようなことがあったのではないでしょうか?
 なお、使徒信経やニケヤ信経でイエス様は「父である神の右に座しておられます」と唱えますが、それはイエス様が私たちの悩み苦しみなどの思いを受け止め、父なる神に執り成してくださることを表現したものです。そのような主イエス様にすべてを委ねたいと思います。