マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第17主日 聖餐式 『信仰とすべきこと』

 本日は聖霊降臨後第17主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ハバクク書1:1-6、12-13、2:1-4とルカによる福音書17 :5-10。神は小さな信仰でも持ち続けることを望み、そして私たちがすべきことは主のみ旨を行うことであることを知り、生涯、主の命じられたことを誠実に行う日々を過ごすことができるよう祈り求めました。「解放の神学」で知られるグティエレスがこの箇所を黙想した言葉についても言及しました。

   信仰とすべきこと

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第17主日、私たちに与えられた福音書箇所はルカによる福音書17章5節から10節です。聖書協会共同訳聖書の17章1節から10節の小見出しは「赦し、信仰、奉仕」で、先程お読みした箇所に当てはまるのは「信仰、奉仕」と言えます。
 
 本日の福音書について説明を加えて振り返ります。本日の箇所は2つの部分からなっています。前半は5節から6節、後半が7節から10節です。 
 この箇所の直前で、イエス様から「罪を犯した兄弟が悔い改めるなら必ず赦すよう」に言われた弟子たちは、そのためには、神様に対する信仰がなければ、それはできないことだと気づいたのでしょう。そこで、使徒(遣わされた者)たちは、「私どもの信仰を増してください」と言いました(5節)。これに対して、イエス様は、言われました。
「もしあなたがたに「からし種」一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『根を抜け出して、海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)と。
 「からし種」の一粒は、1~2ミリでゴマよりも小さく、その種から油を採ります。また、「桑の木」はペルシャの原産で、約6mの高さに伸び、大抵はてっぺんが横に大きく広がります。「からし種」はとても小さなもののたとえで、「桑の木」は大きなもののたとえです。「からし種」一粒ほどの信仰があれば、山に生えている「桑の木」に、海に根を下ろせと言えば「桑の木」はあなたの言葉の通りにするだろう言われています。それは小さな信仰を持って命じると思いもよらないことが起きるということです。信仰がもつ奇跡的な力をこのたとえによって説明しています。「私どもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした使徒たちに対して、イエス様は「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではない」と言っていると考えます。
 ここまでが前半です。後半の7節以下では、イエス様は、もう一つのたとえをもって、神様と私たちの関係、そして、私たちの信仰について、改めて問われます。
 外に出て、畑を耕すとか、羊を飼うかしている僕、きびしい肉体労働をしている奴隷がいたとします。その僕が、一日の労働を終わって、疲れて畑から帰って来ました。すると、主人は「お腹がすいただろう。さあさあ、すぐに食卓に着きなさい」と言うだろうか(7節)。いいえ、どんなに疲れて帰ってきても、相手は僕、奴隷なのだから、反対に、「早く、私のために夕食の用意をしてくれ。服装をちゃんと整えて、私が食事を済ませるまで、そこに立っていて、給仕しなさい。お前は、私が食べた後で食事をしなさい」と言うだろう(8節)と、言われました。
 僕が命じられた仕事をしたからといって、主人は「よくやった。ありがとう」と、その僕に感謝するだろうか(9節)。
 だから、あなたがたも同じことだ。神様とあなたがたとの関係では、神様が「主人」で、あなたがたは「僕」なのだから、神様から、自分に命じられたことを、みな、きちんと果たしたとしても、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」(10節)と、イエス様はおっしゃいました。
 
 本日の福音書でイエス様が私たちに教えていることはどんなことでしょうか?
 それには本日の旧約聖書詩編が参考になります。     
 本日の旧約聖書は、神様に向かって問いかけるハバククとそれに応える主の言葉からなっています。ハバククは紀元前7世紀の終わり頃に南ユダ王国で活動した預言者です。ハバククの目の前に広がる現実は律法が力を失い、正しい裁きが下されない社会です(1:4)。彼は、暴虐と不法の存在を神様に叫んでも答えがない理由を尋ねています。何度かの応答があり、2章2節以下で、神様は「遅くなっても待ち望め。それは必ず来る」と言い、その時は「高慢な者」の見込み違いが明らかにされるから、神様に従う「正しき人はその信仰によって生きる」という道を選ぶべきだと言っています。
 「信仰」はギリシャ語ではピスティスで、この語は「信頼」や「誠実」とも訳すことができる言葉です。
 本日の詩編37:4、5にこうあります。
『4 主のうちにあって喜べ∥ 神はあなたの心の願いをかなえられる
 5 歩む道を主にゆだねよ∥ 主に信頼すれば成し遂げてくださる』
 ここに神様の思いが示されています。主の中に身を置き、主に委ねるとき、願いは叶うということ。主に信頼すること、つまり信仰がなし遂げてくださるというのです。

 本日の福音書旧約聖書詩編に共通する言葉は「信仰(信頼)」であります。神様は私たちに、「どんなに小さな信仰でも持ちなさい。その信仰によって生きなさい。すべては信仰によってなし遂げられる」ということを教えているのではないでしょうか?

 ではその信仰の中身、そして私たちがすべきことは何でしょうか?
 今日は一冊、本を持ってきました。「解放の神学」で知られるラテンアメリカ神学者グティエレスの「み言葉のわかちあい~主日の聖書黙想~」です。

 この中にこうあります。
『イエスは、信仰の大小でなく、揺るがぬ信仰を持ち、それを実行に移すことが重要であると言おうとしているようだ。信仰を実行に移すとは、信仰を強めることである。つまり、愛を実践することを学ぼうということである。信仰を実践することを学ぼう。実践から離れて信仰を増すことはできないのである。 
 私たちはイエスに従うように招かれている。信仰は何よりもまず賜物であると強く確信されるべきなのである。信仰を実践し「命じられたこと」を果たす私たちの力も、また、恵みである。信仰生活は、つねに、私たちが神と他者を愛する限りにおいて受け取ることのできる賜物なのである。』と。
 信仰を増すとは愛を実践することであり、そうできるのも神様からの恵みであり、賜物だ、というのであります。

 本日の福音書の後半の箇所でイエス様が語られた僕の働き、「奉仕」も信仰の実践、愛の実践であり神様からの賜物だと言えます。僕は主人の命じられたことをきちんと果たしますが、それは当然のことであり、「すべきこと」をしたにすぎないのですが、これを私たちにも広げて考えたいと思います。「すべきこと」とは何でしょうか? 私たちは人生のあるときにイエス様にとらえられ、洗礼を受けイエス様に従うことを決断しました。そして信仰の生活を過ごしています。その中心は主のみ旨を行うということです。これこそが私たちが「すべきこと」と言えます。主人である神様が命じられたことを行うということです。

 本日の退堂で歌う聖歌第535番をご覧ください。1節と3節にこうあります(おりかえしは割愛します)。
1 あなうれし わが身も  主のものと なりけり
  湧き出づる 喜び    あまつ世の まぼろし
3 主の愛に満たされ    心 いと安けし
  胸のなみ 静まり    ただ主のみ 仰ぎ見ん
 この聖歌は神を信じ主なる神のものとなった私たちの喜びを歌っています。主の愛に満たされ心穏やかになった私たちは、主だけを仰ぎ見て従う決意をするのであります。

 皆さん、神様は私たちがどんなに小さな信仰でも持ち続けて生きることを望んでおられます。そして、私たちがすべきことは主人である神様のみ旨を行うことです。それが僕である私たちが主なる神様に行う「奉仕」です。そうできるのは神様からの恵みであり賜物であります。