マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第3主日 聖餐式『起き上がられるイエス様』

    本日は大斎節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は出エジプト記20:1-17、詩編19、コリントの信徒への手紙一1:18-25、ヨハネによる福音書2:13-22です。説教では、宮清めの箇所から、イエス様が示した十字架・復活の予告について知り、起き上がられ私たちを支えておられるイエス様に思いを馳せ、信仰の歩みをより深めることができるよう祈り求めました。
 本日の詩編19について黙想している「2024年み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」の私が執筆した文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 能登半島地震の発生から2ヶ月が過ぎました。多くの場所で断水が続き、今も1万1000人以上が避難生活を送っておられるそうです。不安や困難の中におられる方々に主の慰めと励ましがありますようにと祈ります。矢萩主教補佐さんから、能登半島被災者支援金として北関東教区からは30万円を「京都教区能登半島地震対策室」に送ったと、連絡が入りました。そして、各教会の献金は「能登半島地震被災者献金」として3月一杯を目途に北関東教区へ送ってほしいとのことです。皆さんのお祈りとご協力をお願いします。

 さて、本日は大斎節第3主日です。福音書ヨハネによる福音書の2章13節以下から取られています。聖書協会共同訳聖書によりますと、本日の福音書箇所の小見出しは「神殿から商人を追い出す」となっています。「宮清め」という呼び方で、この聖書の箇所に親しんでこられた方も多いと思います。
 
 この箇所のイエス様は、私たちの知っているイエス様とかなり違う印象があります。15節・16節にこうあります。
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない。」 
 なぜイエス様はこのようにお怒りになられたのでしょうか? そして、その意味するところは何でしょうか?
 私はイエス様は、表面的な神様への献げ物よりも、心から神様に従い、神様に祈ることの方が、献げ物よりも大事だと言いたかったのではないかと思います。聖書日課の1ページに本日の旧約聖書出エジプト記20章以下があります。ここは、神様からモーセ十戒が与えられた場面で、十戒の内容が書かれていました。前半部分では、「3 あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」とか「7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とか「8 安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」など神の神聖さ、神に従う信仰の重要性が示されています。イエス様の行動はこの精神にのっとったものであると考えられます。さらに、イエス様は人間の代わりに動物を犠牲として捧げる礼拝を廃止されたのだと考えられます。それは、御自分を十字架の上に犠牲として捧げることを通して、動物の犠牲を廃止したということです。つまり、イエス様は自らがいけにえの牛や羊として死ぬことにより、もういけにえの動物は必要ではないということを身をもって示したのです。それは次の17節でも分かります。こうあります。
『弟子たちは、「あなたの家を思う熱情が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。』
 弟子たちは詩篇69編10節を思い出しています。「あなたの家」とは神殿、「私」とはイエス様、「食い尽くす」とは死ぬこと、つまり、イエス様が十字架で死ぬことと言えます。それは私たちの罪を贖うため、贖罪のためです。
 
 さて、本日の福音書箇所で不思議な言葉がありました。それは19節です。
『イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」』
 これはどういう意味でしょうか? 
 それには、まず神殿とは何かということを考える必要があると思います。
 神殿とは神様が住まわれる場であり、神様と出会う場でした。聖なる場所であり、宗教生活の中心でした。建築するのに46年もかかった神殿をイエス様は「3日で建て直してみせる」と言われるのです。ここで「建て直す」と訳されている言葉は原語のギリシャ語では「エゲイロー」で、元々の意味は「起こす」であり、「起き上がる」や「復活する」とも訳される言葉です。英語の聖書(NRSV)では、「raise it up」とありました。「三日で建て直す」という表現にはイエス様の体と神殿が重ね合わされており、イエス様の復活を指し示しています。つまり、神殿とはイエス様の体のことであり、別の言い方をすれば、イエス様は復活によって、新しい神殿である教会をうち立てられたのです。
 しかし、弟子たちはこの時点ではこのことを理解できず、イエス様が復活された時、イエス様のこの言葉を思い出し、聖書とイエス様の言葉を信じたのでした。
 イエス様は「三日で建て直してみせる。In three days I will raise it up. 」とおっしゃいました。それは十字架の三日後に復活することを予告されたのです。そして、復活されたイエス様は、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるのであります。

 ところで、本日の詩編は「詩編19編」ですが、この詩編については、この「2024年み言葉と歩む大斎節~黙想の手引き~」でも、本日黙想する聖書箇所になっています。

 聖書日課の2ページ、詩編19編で中心聖句は7節です。
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ∥ 主の定めはまことで、無知な者を賢くする。」 
 これは聖書協会共同訳で、「黙想の手引き」の方は別の訳です。この聖書日課の4ページをご覧ください。

 本日の黙想は私の担当であり、その文を転載しました。少し説明を加えてお話しします。
 この「黙想の手引き」の詩編19編の中心聖句(7節)はこうです 
「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。」
 「天は神の栄光を語り∥ 大空は御手の業を告げる。」で始まる詩編19編は「ダビデの賛歌」であり、作者はダビデとされています。この詩は、神の創造、主の教え、神の赦しについて詠っています。ヘブライ語の「律法」という言葉は「教え」を意味し、「主の律法」は現行祈祷書の詩編では「主の教え」となっています。また、「生き返る」の原語は「シューブ」、その意味は「神に立ち帰る」です。それが「魂を生き返らせ」るのです。主の教えは、ダビデを神に立ち帰らせ、魂を生き返らせ喜びを与えました。主の教えは、私たちをも、神に立ち返らせ魂を生き返らせ、喜びを与えるのであります。
 また、詩編19編の最後14節は祈祷書では「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主∥ わたしの言葉と思いがみ心にかないますように」です。この祈りは、多くの聖職が説教の前に唱えており、私も以前はこれを唱えてから説教をしていました。「わたしの岩」とは堅固な岩である神殿(教会)、あるいはイエス様自身のこと、そしてイエス様を私たちの罪を贖ってくださる「贖い主」として呼びかけています。そしてその主に、自分の言葉と思いがあなたのみ心にかなうように、と祈っています。これは「主の祈り」の中の「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と同様の趣旨であると言えます。日々、大事にして唱えたい祈りであります

 皆さん、本日は大斎節第3主日です。大斎節は主イエス様の受難に思いを深める時です。大斎節中になすべき積極的なことは何かと言えば、イエス様の十字架と復活を集中的に黙想することであると言えます。
 本日の福音書箇所である「宮清め」は、十字架につけて殺され、復活したイエス様の体が、この神殿に取って代わることの予告であったとも考えられます。
 私たちはイエス様の十字架の苦しみだけを見るのではなくて、その後の復活の喜びに目を留めたいと思います。そして、いつも私たちと共におられ、私たちを起き上がらせ支えておられるイエス様に思いを馳せ、この大斎節が私たちの信仰の歩みをより深める期節となるように、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン