マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第1主日 聖餐式『荒れ野で支え続ける神』

 本日は大斎節第1主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、
創世記9:8-17、詩編25:1-10、ペトロの手紙一3:18-22、マルコによる福音書  1:9-15。 
 説教では、大斎節の始まりに当たり、荒れ野で神が支え続けておられることを知り、イエス様を模範とし、主の栄光を現し、信仰を深めるように祈り求めました。
 北関東教区と東京教区の聖職が執筆した「み言葉と歩む大斎節〜黙想の手引き〜」等も紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は教会暦では大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節、英語ではレントといいます。大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月14日)から復活日(今年は3月31日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。また、初代教会では毎年一回、復活日(イースター)の明け方に洗礼が行われていましたので、洗礼志願者にとってそのための準備期間という意味合いもあります。
 
 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。マタイやルカは誘惑の内容まで詳しく伝えますが、マルコはいたって簡潔にこの場面を記しています。
 本日の旧約聖書は、ノアの洪水のクライマックスで、神が大洪水に残ったノアと家族、子孫、全ての生き物を祝福し、永遠の契約を立てる箇所です。使徒書は、キリストの苦しみについて語り、ノアへの言及も含み、洗礼の誓約について述べています。
 そして、本日の福音書、マルコ1:9-15では、イエス様は洗礼を受けた後、サタンの試みを受け、その後福音を宣べ伝え神の国の到来を宣言しました。この箇所は、3つの段落からなっています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは、それぞれ「イエス、洗礼を受ける」「試みを受ける」「ガリラヤで宣教を始める」となっています。本日は第2段落にスポットを当てて考えていきたいと思います。
 
 この箇所、マルコ1:12-13はこうです。 
「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。 イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」
 「それからすぐに」とはイエス様が洗礼を受けてすぐに、ということです。「荒れ野」は、特別な場所です。試練の場所であり、誘惑の場所であり、しかし、そこは神様と出会う特別な場所です。「それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。」とあります。「追いやった」という言葉は、 新共同訳では「送りだした」と訳されていましたが、原語のギリシャ語では「追い出す」とか「投げ込んだ」とか、そういう強い力を表す言葉で、聖書協会共同訳はかなり原文に忠実に訳しています。イエス様の受洗後、霊はイエス様を、試練の場、誘惑の場、しかし、神様との出会いの場に投げ込んだのです。
 霊は、洗礼の時イエス様に降り、11節で「あなたは私の愛する子、私の心に適う者である」と宣言された霊です。それは、三位一体の第三位格である「聖霊」です。父なる神様からイエス様に降ってこられたその霊が、今度はイエス様を「荒れ野に追いやった」のです。
 ここでは「試みを受け」る(ギリシャ語では「ペイラゾー」)という言葉に注目します。これは名詞「ペイラスモス」の動詞形です。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。同じ言葉がサタンから見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことです。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのです。
 
 荒れ野は神的な力と悪魔的な力とが共存する場所であり、その意味で私たちが生きる日常の象徴とも言えます。イエス様が荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」に生きる私たちを励まし、慰めるためです。イエス様と共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神様への信仰を告白する試練に変わります。 
 ちなみに、かつての「主の祈り」の文語訳は「われらを試みにあわせず」となっており、聖書協会共同訳のマタイ6章13節でも「私たちを試みに遭わせず」と訳されています。しかし、試みや誘惑は必ずあるものなので、「試みや誘惑にあわせないでください」と祈ることはどうなのかと考えます。現行の「主の祈り」では「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」の意味と理解します。この方が、今日の箇所のイメージにつながると考えます。
  「また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。」とありますが、どういうことなのでしょう?
 イエス様の荒れ野での生活は野獣と隣り合わせであり、同時に神の使いとともに過ごす日々だったのです。野獣とともに、天使とともに生きる。イエス様が試みに直面した場とはそのような場でした。しかも天使たちが仕えていた。ここの動詞は未完了形でした。ギリシャ語の未完了形は動作の継続・反復を表します。つまり、神の霊の働きはイエス様を支え続けていたのです。これは私たちの生きる場でも同様であります。私たちの生活は野獣と隣り合わせですが、天使たちが、神の霊が、支え続けておられるのです。
 さらに言えば、「野獣」と訳されたギリシャ語原文は「切り裂かれた」という動詞の名詞形で、「仕える」の原語は「ディアコネオー」で元々の意味は「給仕する」です。であれば、「野獣」はイエス様が切り裂かれる、つまり十字架や苦難を象徴し、「仕える」は私たちに給仕すること、つまり神様が食べ物等私たちの必要を満たし続けておられるということではないでしょうか?

 冒頭お話しましたように、大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制と克己に努め、自分を見つめ直すという意味があります。そして、大斎節には、何か目標を決め自分にとって少しきつい試練を与えることをよくします。毎日聖書を読むとか、普段なかなか読めない神学書を精読するとか、誰かを覚えて祈り手紙やメールを送るとか、お酒やコーヒーなど好きなものを少しセーブしてそれを大斎克己献金として献げるとかです。北関東教区と東京教区の聖職が執筆した「み言葉と歩む大斎節〜黙想の手引き〜」を毎日読み、黙想するのも一つの方法です。
https://www.nskk.org/tokyo/wp-content/uploads/2024/02/2024lent-2.pdf
 私は、今年は「イエス様の宣べ伝えた福音」について知りたいと考え、この本、本田哲郎神父の「釜ヶ崎と福音~神は貧しく小さくされた者と共に~」を精読することにしました。

 本日の福音書のマルコ1:14でイエス様が宣べ伝えた福音は、今私たちが考える体系だったキリスト教の教えではなかったと思います。「神の国が近づいた(原文では完了形、ギリシャ語の完了形は現在も含みます)」、つまり「神の支配が到来した(英語では「has come」)という福音(Good news、良い知らせ)」であり、それは言葉で伝えるというより、イエス様がそばに行って手をさしのべられた「貧しく小さくされた人」と共に生きるということなのだと思います。この本の巻末には2006年6月15日第2刷とあり、赤鉛筆の線が本の半分くらいまで引いてありましたので、前半までは読んだのだと思います。しかし、それから約18年が過ぎ、私も神学校で学び聖職に按手され知識と経験を重ねて、福音についても新たな気づきが与えられています。司祭となって5年を迎える今、この本を精読したいと考えました。
 さらに、この本も読みたいと思っています。宗教多元主義を唱えた、英国の神学者、ション・ヒックの「神は多くの名前をもつ~新しい宗教的多元論~」です。

 この本は、今、旧群馬町の図書館で行われている読書会で遠藤周作の「深い河」を読んでいて、私もできるだけこの読書会に参加しているのですが、遠藤周作が「深い河」を執筆するきっかけになった本です。この本は、キリスト教だけに救いがあるのではなく、仏教やイスラム教などの宗教にも真理があるというスタンスで書かれています。これは本田哲朗神父の考えとも通ずる考えだと思います。この2冊をこの大斎節期間に読んで、新たな視点から信仰を深めたいと考えています。皆さんも、この大斎節に何か目標を決め、自分にとって少しきつい試練を与えることをお勧めします。

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。イエス様が洗礼を受けた後にサタンの試みにあったように、私たち洗礼を受けた信仰者も、いろいろな誘惑や試練に遭遇します。しかし、天使たちがイエス様を支えたように、どのような場合でも神様が私たちを支え続けておられますから、主イエス様にならい福音を宣べ伝え、主の栄光を現すことができるよう、祈りを捧げたいと願います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、節制と克己に努め、信仰を深めるように祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン