マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第5主日『イエス様と共に向こう岸に渡る』

本日は 聖霊降臨後第5主日です。午前高崎、午後新町の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、ヨブ記 38:1-11、詩編107:1-3・23-32、コリントの信徒への手紙二 6:1-13及びマルコによる福音書 4:35-41。説教では、ガリラヤ湖における奇跡を通して、危機や苦難を乗り越えるには神様へ全幅の信頼を寄せる必要があることを知り、すべてを主に委ねて、日々の信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。 
 テーマと関係する本田路津子の新聖歌248番「人生の海の嵐に」を聞き、意味を確認しました。
 新町の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第5主日です。
 聖書日課は、福音書はマルコによる福音書4:35-41です。本日の箇所は先主日の箇所の続きで、イエス様がガリラヤ湖で突風を静める奇跡が記されています。先主日は「成長するする種のたとえ」や「からし種のたとえ」のように神の国のたとえが語られました。本日の奇跡も、神の国のことを語っているように思われます。つまり、先主日はたとえを通して、本主日は奇跡を通して「神の国はこのようなものですよ」と神様が私たちに教えておられるのです。
 
 本日の箇所はこんな話です。イエス様は弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。ガリラヤ湖の向こう岸、その地はデカポリス地方、そこはギリシャ人、ユダヤ人から見れば異邦人の住む場所です。弟子たちの心には恐れや不安が湧き上がったに違いありません。
 さて、イエス様を乗せた舟が沖に出た頃、突然激しい突風が起こりました。嵐は、いよいよ激しくなり、舟の中にまで浸水し始め、舟は沈没しそうになりました。弟子たちは狼狽して忙しく働いたと思われますが、イエス様は艫(とも)の方(船尾)で枕して寝ていました。その時、弟子たちはイエス様を起こそうとして「先生、私たちが溺れ死んでもかまわないのですか」と言いました。狼狽する弟子たちに動じることなく、イエス様は起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言いますと、風は止み、嵐はすっかり凪(なぎ)になりました。ちなみにここで「湖」と訳されているギリシャ語は「サラッサ」で、本来は「海」です。英語の聖書(NRSV)でもthe seaでした。ここでは、ガリラヤ湖を荒れ狂う「海」ととらえているのでしょう。
 その後、イエス様は、弟子たちにこう言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と。この言葉はイエス様と弟子たちの違いが何に由来するのかを明らかにしています。弟子たちの恐れと狼狽は神様に委ねきれない臆病さから生じ、イエス様の静けさと権威は神様に信頼する信仰に根ざしています。神様への信頼の有無が両者の違いを生み出しています。荒れ狂う波を静めたのは、イエス様自身であるというよりもイエス様の信頼に応えて働く神様です。
 イエス様は神様に信頼する全幅の信仰を持っておられました。そして、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と言っておられます。そして、イエス様は私たちにも、そのように呼びかけられています。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と。しかし、それは叱責や嘆きではなく、イエス様は私たちに神様に全く信頼するよう呼びかけておられるのだと思います。 
 弟子たちは、イエス様を通して働く神様の力を目の当たりにして「怖れ(畏怖)」を覚えます。この怖れを抱きながら「一体この方はどなたなのだろう」と問い始めます。これはイエス様の本質に関わる重大な問いです。弟子たちはこの時点でイエス様がキリスト(救い主)であることを理解していなかったのです。

 先ほど福音書前に歌った聖歌448番の1節はこの箇所を歌ったものです。こうあります。
『み父よ世の波  さかまく海路
 渡り行くわれを 守らせたまえ
 恵みのもとなる み父のほかに
 たより求むべき 助けはあらず』
 この歌では、父なる神様に世の荒波の海路を渡る私たちの人生のみ守りを祈り、神様の他に頼れる助けはない、と歌っています。それは、神様に全幅の信頼を置いているということです。

 そのことは、本日の詩編107編1節以降の、特に23節から30節に示されています。ここでは、船乗りは神様に完全に頼っています。28~30節にこうあります。
『苦難の中で主に叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出した。
 嵐を沈黙させたので 波は収まった。
 彼らは波が静まったので喜び 主は彼らを目指す港に導いた。』
 これは私たちの人生における嵐や波によく似ています。私たちの人生の荒波には苦難がありますが、「主よ、助けてください」と心から叫ぶと、主は嵐や波を収めてくださいます。そして、目指す港に導いてくださるのです。

 ところで、今日は1枚のCDを持ってきました。本田路津子の「小さなかごに」です。

  これはフォーク歌手で紅白歌合戦にも出場した本田路津子1984年(昭和59年)に初めてリリースした聖歌・讃美歌のアルバムです。この中に「人生の海の嵐に」という聖歌が入っています。この曲は私たち聖公会の聖歌集にはなく、福音派の「聖歌」の472番でしたが、今は新たに編集された「新聖歌」の248番となっています。それをコピーした楽譜を受付でとっていただきましたが、それをご覧ください。CDでこの曲をかけますので、歌詞を見ながら聞いてください。
https://www.youtube.com/watch?v=4LSezRGu3B4

 『1. 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
  不思議なる神の手により 命拾いしぬ
 (折り返し)
  いと静けき港に着き われは今安ろう
  救い主イェスの手にある 身はいとも安し
 2. 悲しみと罪の中より 救われしこの身に
  誘いの声も魂  揺すぶることを得じ
  3. すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
   死を待つは誰ぞ直ちに 逃げ込め港に』

 言葉が難しいので現代語に訳してみます。
『1. 人生という海の嵐に、もまれている自分も
    不思議な神様のご計画により、命拾いした
  (折り返し)
    とても静かな港に着き、私は今安らいでいる
    救い主イエス様の御手の中にある自分は、とても安らかである
 2.  悲しみと罪の中から 救われた私には
    誘惑の声があっても 心が揺らぐことはありえない
 3.  すさまじい罪の数々に操られるままに
    死を待っている人は誰か すぐに安全な港に逃げ込みなさい
 歌詞の中の「港」とは、神様の御許を表しています。
イエス・キリストによって港に到着した(イエス様を信じた)キリスト者は、いつでも(この世においても)平安がある、という意味の歌だと思います。
 人生には病気や事故など予期せぬことが起き、不安でたまらなくなることがあります。しかしそのような時、主イエス・キリストに信頼しすべてを委ねると、安全な港である神様の許に導いてくださることを、この聖歌は教えています。

 さらに本日の福音書箇所に即して言えば、私はこう思います。人生という大海原では時として危機や苦難などの嵐が起きます。その折には共にいてくださる神様に信頼し「主よ、助けてください」と切なる叫びをあげればよい。そうすれば神様は応えて、凪を、平静を与えてくださる。そして、そこが神の国である。本日の箇所を通して、神様はこのようなことを私たちに伝ようとしているのではないでしょうか? 

 皆さん、危機や苦難が訪れたとき、私たちはつい「どうして私に?」と嘆いたりその原因を追及したりしがちです。しかし、神様はそうすることよりも、主イエス様が共にいてくださることをおぼえ、神様に全く信頼し祈ることをお望みだと考えます。 
 危機や苦難に際して私たちが持つべきものは「神様への信頼」です。信仰とは、神様への信頼であり、神様を信じ仰ぐことです。
 私たちは湖や海に浮かぶ舟のようであり、私たちの人生には、時には危機や苦難などの嵐が突然起きることがあります。しかし、私たちの舟にはイエス様が一緒に乗って、祈りに応えてくださるのです。
 「向こう岸に渡る」、つまり、未知の世界で危機や苦難を乗り越えるには、神様へ全幅の信頼を寄せる必要があると、今日のガリラヤ湖での奇跡は教えています。
 この舟に、イエス様が共に乗っておられることを、しっかりと受け止め、すべてを主に委ねて、心から信頼して日々の信仰生活を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。                                          

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン