マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第13主日 聖餐式 『イエス様の弟子になる条件』

 本日は聖霊降臨後第13主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、申命記30 :15-20とルカによる福音書14 :25-33。イエス様が弟子になるため示した3つの条件の真意を知り、「執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従う」という目標に少しでも近づけるよう日々祈ると話しました。弟子の原語「マセーテース」の意味にある「学習者」から、日々学び続けることの重要性についても語りました。

   イエス様の弟子になる条件

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第13主日、聖書日課は特定18です。旧約聖書申命記30:15-20で、モアブの地で主がモーセに命じてイスラエルの人々と結んだ契約の言葉の一部です。そこでは、神の民は、その前におかれた「命と幸い、死と災い」のうち命の方を選ぶ決断をし、主に付き従うようにと求められています。
 そして、今日の福音書ルカによる福音書14章25節以下で、聖書協会共同訳聖書では「弟子の条件」という小見出しがつけられています。
 イエス様の弟子になるための条件はこれだ、ということが示されています。
 今日の福音書は「大勢の群衆が付いて来た」という言葉から始まります。人々はエルサレムに向かうイエス様に付いて来ました。エルサレムでは十字架上での死が待っていました。イエス様はそのことをよく分かった上での旅でした。しかし群衆はそのことを知らずに付いて来ています。その大勢の人たちの方を振り向いて、イエス様は語り始めます。 
 その言葉は、愛の人、イエス様とは思えないような厳しい言葉ばかりです。
 今日の箇所では、「私の弟子ではありえない。」という言葉が3回出てきます。26節・27節・33節 の3つの文です。
 文字通り読むなら、イエス様の弟子になるには、①家族や自分の命を憎むこと、②自分の十字架を負って付いて来ること、③自分の財産をことごとく捨てること、この3つが必要であると言っています。これを忠実にできる人でなければイエス様の弟子になれないなら、誰がイエス様の弟子になれるというのでしょう? 
 イエス様がこのように言う真意はいったい何なのでしょうか?
  この3つの文(3つの条件)について思い巡らしてみましょう。

 まず第1の条件、26節です。
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」
 これをそのまま読めば、かなり衝撃的な言葉です。しかしここで使われている「憎む」という言葉は、ギリシャ語の辞書を見ますと「敵意や憎しみをもつ」という意味ではなく「より少なく愛する」または「放棄する」という意味のユダヤ的表現とのことでした。そうであれば、こう考えます。
 自分の家族への愛情は、時には見知らぬ人に対しては排他的で、利己的になりがちです。深い関係に結ばれた家族にとらわれずにいることができるかどうか、自分を切り離すことができるかどうか、そのことをイエス様は尋ねておられると言えます。

 続いて第2の条件、27節です。
「自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない。」 
 イエス様の弟子になるには「自分の十字架を負う」ことが求められています。「十字架を負う」という言葉は日ごろ使われている意味とは少し違います。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対して「見せしめ」として殺す残虐な処刑方法でした。私たちの語彙としては、「十字架を負う」とは「悲しみを負う」とか「辛いことに耐える」という意味に受け止められがちですが、当時の人々にとって「十字架を負う」とは死刑になることでした。つまり「自分の十字架を負って付いて来なさい」とは、あなた自身が死刑になることを覚悟して付いて来なさい、ということです。イエス様の言動、言葉と行いが「十字架」という結論を導き出したのですから、そのイエス様の弟子として生きるということは、イエス様のような言葉と行いが、たとえ十字架刑という結末を招いたとしても妥協することなく、神様の御心に添う生き方を貫いて、十字架への道を歩む覚悟を持たなければならない、そうでなければイエス様の弟子にふさわしくはないということだと思います。
 さらに言えば、これは「自分の十字架」であり、殉教の覚悟というよりは、その覚悟に基づく日常生活の中で実現すべき態度であると考えられます。その意味で、この十字架は「日々」負い続ける十字架であります。その覚悟で、日々イエス様に従うことが求められています。

 最後に第3の条件、33節です。
「自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない。」
 「自分の財産」とは、土地・家屋やお金などの所有物だけでなく、私たちが大事だとしている価値観、欲望や野心も含めて、すべてのものをいうと考えられます。「これをことごとく捨てなければ、イエス様の弟子にはなれない」と言われるのです。「ことごとく捨てる」というのは、物質的にも、また自分の内面的なことなど、すべてに対して執着しないということ。そしてイエス様だけを唯一の支えとするということです。 
 第3の条件の言葉を導いている28節からの「塔を建てる人のたとえ」と31節からの「戦いをはじめる王のたとえ」とは、どちらも「はじめる前には腰を据えてよく考えるはずだ」ということを示しています。
 だから「あなたがたも同じようによく考えてほしい」とイエス様は語ります。そして、「すべてのものへの執着心を捨てて私に従いなさい」と。「それが私の弟子になるために必要なことだ」と。

 今まで見てきたように、イエス様は弟子になる条件として、①家族や自分の命を憎むこと、②自分の十字架を負って付いて来ること、③自分の財産をことごとく捨てること、この3つを示されました。どれも私たちには厳しく、常識では計り知れないものでした。
 その真意は何だったでしょうか?  
 イエス様は、今エルサレムへ、十字架へ向かっています。群衆はこのエルサレムへの旅の本当の意味を知りません。イエス様はこのように厳しい言葉を使うことで、共に歩む群衆に、この旅の真の意味を知らせようとしたのではないでしょうか?
 そしてそれは、群衆と同様にイエス様と歩む人生の旅の本当の意味を知らないこの私たちにも向けられています。
   弟子になるとはどういうことか。それは「価値観を変えられ、何が大切かという優先順位も変えられてしまう」ということです。執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従うこと。これこそイエス様の弟子になる条件と言えます。

 なお、本日のキーワードである「弟子」と訳されたギリシャ語原語の「マセーテース」には「学習者」という意味があります。弟子はいつも学び続けていくということです。昨日、「教会問答勉強会」があり、5名の参加者と一緒に主にこの本、竹内謙太郎先生の「教会に聞く」により「使徒信経」について学びました。

 この勉強会はキリスト教の教理を学ぶもので一つの例ですが、弟子である私たちは、このように学び続けることが求められているのです。
  
 今日の福音書でイエス様が厳しい言葉を言われた真意をつかみ、この世の価値や所有物に執着せずそれぞれの十字架を背負い、イエス様に従って歩むことが私たちに求められています。これが弟子として歩む人の目標です。
 私たちは人生のある時イエス様に出会い、弟子となり、価値観が変えられ新しい生き方が始まりました。しかし、長く信仰生活を送っていると往々にしてその時の気持ちを忘れがちになっているではないでしょうか? 
 イエス様の弟子であることを自覚しましょう。私たちは真の救い主であるイエス様に従っていきたいと願います。 

    そのために、「執着心を捨て日々十字架を負う覚悟でイエス様に従う」という弟子としての目標、イエス様が示される「イエス様の弟子になる条件」に少しでも近づけるよう日々祈って参りたいと思います。