マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活前主日聖餐式 『イエス様を「神の子」と告白する信仰』

 本日は復活前主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、フィリピの信徒への手紙2:5-11とマタイによる福音書27:1-54。不思議な出来事を神の業・力として恐れ、イエス様を「神の子」と告白する信仰を持ち、神を信頼し、神の答えを求め続けるよう祈り求めました。
 この主日のテーマと合った本日の入堂聖歌と奉献聖歌についても言及しました。

<説教>
 本日は、復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。

 復活前主日は「しゅろの主日Palm Sunday)」とも言われます。今日の祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入城の時に、群衆がしゅろを持ち、その枝を道に敷いて歓迎した日を記念しています。先ほどの入堂聖歌の聖歌第137番「ユダのわらべの」はこの日のことを歌っています。
 なお、受付にある、昨日有志により制作され、今朝、祝別された「しゅろの十字架」をお持ち帰りになり、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、思い思いの場所に保管してください。
  
 本日は、午後1時半から墓地礼拝が予定されていますので、説教は、短くします。
 本日の福音書箇所はマタイの27章、聖金曜日(受苦日)の早朝から午後3時頃までのことであり、ピラトから尋問を受け、死刑の判決を下され、十字架上で息を引き取るイエス様の姿を記しています。先ほどの「十字架の道行き」の第1留から第12留までの箇所に当たります。バッハの「マタイ受難曲」はこの箇所を音楽で表現し、この曲ではこの後の奉献聖歌の聖歌第125番「血しおしたたる」のコラールが何度も出てきます。
 今日はイエス様を十字架につけた人々とイエス様を「神の子」と認めた人々にスポットを当てて考えてみたいと思います。
  
   イエス様を十字架につけたのは誰でしょうか? 
 今日の箇所を読むと、この時代ユダヤを統治していたローマの総督ポンテオ・ピラトはイエス様を罪に定めたくないと思い、恩赦の機会を与え、群衆に「一体、どんな悪事を働いたというのか」と問いますが、群衆は「十字架につけろ」(23節)と叫んだことが描かれています。これは金曜日の出来事です。その週の日曜、しゅろを道に敷いて歓迎した群衆が、その週の金曜にイエス様を十字架につけるよう施政者に要求しているのです。最初にイエス様を亡き者にしようとしたのは祭司長たちと民の長老たちでした。彼らは自分たちの偽善を追求するイエス様を疎ましく思い、ねたみもあって殺そうとしたと考えられます。群衆はローマからの解放という期待に添わなかったイエス様よりも、この地の変革を望む政治犯とも考えられるバラバを選んだのでした。先ほど、福音書朗読の折りに、群衆が言った「バラバを」「十字架につけろ」などの言葉を皆さんに唱えていただきました。
 イエス様を十字架につけたのは群衆、ユダヤの人々と言えます。十字架上のイエス様を見て彼らは言います。40節です。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
 彼らは、十字架から降りることのできる者が「神の子」だと考えています。祭司長たちやイエス様と共に十字架につけられている二人の強盗も同様でした。彼らにとって、十字架から降りて自分を救うことのできないイエス様は「神の子」ではないのです。

 では、イエス様を「神の子」と認めたのは誰でしょうか?    
 イエス様が息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、聖者たちの体が生き返る」という不思議なことが起きます。それを目撃した百人隊長や兵士たちは、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言いました(54節)。
 「神の子なら」という関心すら持たなかった異邦人が、イエス様を「神の子」と告白したのです。人間の思いを打ち砕く神様の力を恐れることが、神様からの救いにあずかる第一歩となったのです。
 一方、「神の子なら、十字架から降りるはず」という自分たちの考えに固執するユダヤ人は、神様が起こした出来事に示された神様の答えを聞き逃してしまったのです。

 私たちはどうでしょうか? 「神の子なら、十字架から降りるはず」という考えに固執してはいないでしょうか? 「神の子なら自分を救うはず」と思ってはいないでしょうか? もしそうなら、私たちはイエス様を十字架につけた群衆やユダヤ人と同様の存在と言えるのではないでしょうか?

 苦しみを逃れることではなく、苦しみを越えて与えられる救いがあることを、神様は私たちにイエス様の復活を通して教えているのです。それは、人が自分では生きる力をすべて失ったときにも、神様の力によって起こされて生きる「いのち」です。その復活の「いのち」に出会うためには、「十字架から降りることが救い」という考えから離れて、神様の力を信頼し、今は見えない答えを求め続ける生き方へと向かわなければならないように思います。

 皆さん、私たちは、イエス様を十字架につけたユダヤ人や群衆のように「神の子なら、十字架から降りるはず」という自分の考えに固執するのでなく、百人隊長や兵士たちのように、不思議な出来事を神様の業・力として恐れ、イエス様の死によって起こされた出来事を見て「まことに、この人は神の子だった」と告白する信仰を持ちたいと願います。今はまだこの群衆のようであっても、この百人隊長のように神様を信頼し、神様の答えを求め続ける信仰者に変えていただけるよう祈り求めて参りたいと思います。