マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『W.H.オーデンの詩「見るまえに跳べ」に思う』

 この4月から主に求道者を対象に、毎週土曜日午後4時から竹内謙太郎司祭著の「教会に聞く」により「教会問答(カテキズム)勉強会」を会館で行っています。既に信徒の方も参加しています。
 先日、この勉強会でW.H.オーデンの詩「見るまえに跳べ」が話題になりました。
 W.H.オーデン、ウィスタン・ヒュー・オーデン(Wystan Hugh Auden、1907年-1973年)は、イギリス出身でアメリカ合衆国に移住した詩人です。オーデンの育った家庭は、英国国教会の中でも、教義や典礼の面で最もカトリック教会に近い、「ハイ・チャーチ」や「アングロ・カトリック」と呼ばれる一派に属していました。オーデンの父方と母方の祖父は、2人とも英国国教会の聖職者でした。幼年期のオーデンは教会での奉仕活動によく参加したそうです。

 W.H.オーデンの詩「見るまえに跳べ」の題名の原文の英語は“Leap before you look”です。これは英語のことわざ“Look before you leap”(転ばぬ先の杖)を転じたものです。
 私はこの詩を、この「オーデン詩集(深瀬基寛訳)」で親しんできました。

 この本の“Leap before you look”の原文と日本語訳はこうです。

   Leap Before You Look

  The sense of danger must not disappear:
  The way is certainly both short and steep,
  However gradual it looks from here;
  Look if you like, but you will have to leap.

  Tough-minded men get mushy in their sleep
  And break the by-laws any fool can keep;
  It is not the convention but the fear
  That has a tendency to disappear.

  The worried efforts of the busy heap,
  The dirt, the imprecision, and the beer
  Produce a few smart wisecracks every year;
  Laugh if you can, but you will have to leap.

  The clothes that are considered right to wear
  Will not be either sensible or cheap,
  So long as we consent to live like sheep
  And never mention those who disappear.

  Much can be said for social savior-faire,
  But to rejoice when no one else is there
  Is even harder than it is to weep;
  No one is watching, but you have to leap.

  A solitude ten thousand fathoms deep
  Sustains the bed on which we lie, my dear:
  Although I love you, you will have to leap;
  Our dream of safety has to disappear.

    「見るまえに跳べ」

 危機の感覚は失ってはならない
 道はたしかに短かい、また険しい
 ここから見るとだらだら坂みたいだが。
 見るのもよろしい、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 ずいぶん頭はしっかりしてても、睡眠中にはべそを掻く、
 阿呆の守れる細則でも破ることには遠慮がない、
 失せる傾向をもつものは
 因襲でなくて恐怖なんです。

 じたばたする奴、塵、円るんだ角、ビールなんかは
 頭を少しひねったら、しゃれくらいなら毎年飛ばせる。
 笑いたければお笑いなさい、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 着るのにちょうど恰好の衣裳を見ていると
 間が抜けてるうえに、値段が決して安くない、
 羊のように従順に生きる限りは
 失せる奴らに遠慮しているあいだは。

 気の利いた社交界の振舞もまんざら悪くない
 だがひと気のないところで悦ぶことは
 泣くよりももっと、もっと、むつかしい。
 たれも見ている人はない、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 一万尺の海底の孤独というものが
 あなたと私の臥ているベッドを支えているのです。
 むろんわたしはあなたを愛するんですが、あなたは跳ばなくてはなりません。
 安全無事を祈願するわたしたちの夢は、失せなくてはなりません。


 「Look if you like, but you will have to leap.(見るのもよろしい、でもあなたは跳ばなくてはなりません。)」の言葉が心に残ります。現状を把握することは大事だが、あるときに飛躍を、決断をしなければならない。それができる根拠は愛する人の存在(Although I love you, you will have to leap;)ということを示唆しています。
 私たちが信仰に入るときもそうかもしれない、と思います。私たちは人生のある時にイエス様に出会い、キリスト教信仰に入るという決断、飛躍をしました。「決断、飛躍をさせられた」と受動態の方がふさわしいと思いますが、そうできた根拠は私たちを無条件に愛してくださる神様がおられるからなのだと思うのです。

「救いは信仰の決定的飛躍によってのみ得られる(キルケゴール)」という言葉があります。逆に言えば、「信仰の決定的飛躍により救いが得られる」ということです。では、その「信仰の決定的飛躍」はいつなされるのでしょうか?

 ギリシア語で「時」を表す言葉は「クロノス」と「カイロス」の2つがあります。前者は時計やカレンダーで計れる「量的な時間」(1時間は60分、1日は24時間、1ヵ月は30日間など)です。後者は計ることのできない、かけがえのない「質的な時」を指すほかに、「機が熟す時」「適切な時」「完璧なタイミング」といった意味合いがあります。
 新約聖書では、「時」について語られている多くの箇所に、カイロスが用いられています。例えば「時(カイロス)は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)、「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時(カイロス)に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(ローマの信徒への手紙5章6節)などです。
 カイロスとは、過去、現在、未来(クロノス)にとらわれない神様の次元のものです。神様が与えられた「時」であり、神様が導いておられる「時」です。カイロスの質的な時は、神様と出会う時であり、神様と共にいる時であり、神様ご自身が人間を愛され、人間を救われる「神の時」であります。
 「信仰の決定的飛躍」もそのカイロスによってなされるものと考えます。神様が与えられた「時」、神様が導いておられる「時」によってなされると。その「時」を待ち、その「時」に従うよう、神様の導きを祈ります。
 そして、その「時」は誰にも与えられています。すべての人に神様による救いの門は開かれ、聖書の中の聖書といわれるヨハネによる福音書3章16節にあるとおりです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」