マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨日 聖餐式 『聖霊を受け使命を果たす』

 本日は聖霊降臨日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。主日としては年2回しかない赤の祭色でした。

 聖書箇所は、使徒言行録2:1-11とヨハネによる福音書20:19-23。聖霊により罪の赦しの権能と派遣の使命を与えられたことを知り、人々の罪を赦す者に変えられ、派遣された使命を果たすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めました。聖霊降臨日を描いたエル・グレコの聖画も活用しました。

   聖霊を受け使命を果たす

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の3大祝日の一つです。聖霊降臨日はイエス様の復活から50日目に聖霊が降ったことを記念する日です。日曜学校の子供たちには「教会の誕生日です」と言っていました。先ほど読んでいただいた使徒言行録2章1節以下にあるように、この日、弟子たちに聖霊が降り教会の活動が始まったからです。なお、復活日から今日までが復活節であり、「大いなる50日」とも言い、この日までパスカルキャンドルを設置します。ギリシャ語の「ペンテコステ」とは「50番目」という意味です。昇天日から使用してきた「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」の「祈りのしおり」も最終日となりました。

 聖霊降臨日(ペンテコステ)の由来について少しお話しします。スペインの画家、エル・グレコ聖霊降臨日をこのように描きました。

 中央に聖母マリア、その周りにイエス様の弟子たちの驚きの様子が描かれています。聖書本文では、マリアがいたと直接に言及はしていませんが、エル・グレコはおそらくいただろうと考え描写しました。本日の使徒書、使徒言行録2章の記述によれば、イエス様が亡くなった後、五旬祭(過越祭の安息日の翌日から50日後のユダヤの祭り)の日に、弟子たちをはじめ、一同が集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえて、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたという出来事が起こりました。この出来事を記念して、ペンテコステ、「聖霊降臨日」と言われています。

 本日は、与えられているヨハネによる福音書の箇所を中心として、私たちに働いている聖霊について、考えたいと思います。

 本日の福音書は、復活節第二主日(今年は4月24日)にも読まれた箇所の前半部分です。イエス様の十字架の三日後、マグダラのマリアに復活の姿を見せたその日の夕方、エルサレムのとある家の2階部屋(アパ・ルーム)に弟子たちが密かに集まっているところに復活した主イエス様が現れた箇所です。ちなみに、この部屋は、イエス様と弟子たちが最後の晩餐をした部屋です。この部屋はマルコの母親の家と言われています。この当時、二階建ての家を持つということはかなり裕福だったと考えられます。伝承ではマルコの父は既に亡くなっていたようです。聖母マリアも夫のヨセフを既に亡くしており、夫を亡くした者同士のマルコの母とマリアが親しくしていたことは想像でき、マリアが聖霊降臨日にこの部屋にいたことは容易に想像できます。今日の使徒言行録に記された復活日から50日目に聖霊が降臨したのもこの部屋でした。なお、復活節第二主日福音書箇所ではトマスの疑いも含んでいましたが、今回は、弟子たちに聖霊が与えられたことにスポットが当てられ前半部分だけになっています。
 
 今日は、特に、今回与えられている福音書箇所の後半を中心に思い巡らします。聖書日課ヨハネによる福音書20章21節・22節をご覧ください。
『イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』
 復活した主イエス様に会えて喜んでいる弟子たちにイエス様は、もう一度「あなたがたに平和があるように」と言います。この言葉はユダヤ人たちが挨拶としてしている「シャローム」というものですが、2度も言っているということは単なる挨拶を超えた意味であることを示しています。この平和は神様から来る賜物であり、イエス様を通して人に与えられます。その場合、平和は単なる無事や平安ではなく、神様がもたらす救いと同義であり、イエス様を通して神様から人に与えられる恵みの賜物を意味します。
 さらに、イエス様は弟子たちを「遣わす・派遣する」と言います。それが弟子たちの「ミッション・使命」です。これまで父である神様に派遣された者としてイエス様が地上で行ってきた使命を、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、その使命を果たすことができるように「聖霊」という神様からの力が与えられるのです。

 「聖霊」とは何でしょうか? 私たちは祈りの時に十字を切り「父と子と聖霊の御名によって」と言います。父である神様、その御子であるイエス様、それは分かるが、聖霊はどうも分かりにくいという方が多いかも知れません。聖霊とは、どのようなものをいうのでしょうか?
 「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼び、それが神様からの力であれば「聖霊」ということになります。
 聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせる「しるし」をもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がその「しるし」です。
  ここでイエス様がなさった「息を吹きかけて」という行為は、創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。
 その場面は創世記2:7で、こうあります。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」
  ヨハネ20章22節の御言葉『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。』は神様が天地創造の最後に人間を創られた時の、この言葉に対応していると考えられます。イエス様は弟子たちに息を吹きかけ、復活の命に生きる者へと新たに創造しました。これこそ永遠の福音です。神様の働き・神様とのつながり(聖霊)を受けることにより、私たちは父なる神様とイエス様を真に知ることができ、真に生きることができるのだと思います。 
 このことについては、後ほど聖別祷の特別叙唱として祈る中で簡潔に示されています。祈祷書の196ページですがこうあります。
「主イエス・キリストは天に昇り、父の右に座して後、公会に聖霊を降し、そのみ力によって万国に永遠の福音を宣べ伝えさせられました。わたしたちは聖霊によって闇と惑いの中から明らかな光に導かれ、父とそのみ子イエス・キリストをまことに知ることができます」
 イエス様は昇天の後、聖霊を降し、それによりすべての国に永遠の福音を宣べ伝えました。私たちは聖霊により闇から光に導かれ、父なる神様とイエス様を真に知ることができるのです。このことを記念するのが本日の聖霊降臨日なのです。

 23節をご覧ください。『誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』です。
 これは、どういう意味でしょうか? 
 これは、21節の中で「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と父なる神様がイエス様を派遣したように、弟子たちもイエス様から派遣の使命をいただきますが、その目的が示されています。イエス様が弟子たち、そして私たちを派遣する目的、それは「罪の赦し」をもたらすためだと言っているのです。
 イエス様は他人の罪を赦すことを命じておられます。しかし、私たちはなかなか人の罪を赦すことはできません。そんな私たちにイエス様は息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」と言われます。人の罪を赦すことができるようにイエス様は聖霊を受けるよう促しておられます。聖霊によってもたらされる「罪の赦し」です。人の罪を赦すことは人間の力でできるのものではありません。聖霊によって神様が私たちにその権能をお与えくださるのです。   
  
 今日は聖霊降臨日です。聖霊により罪の赦しの権能と派遣の使命を与えられた信仰共同体である教会が誕生した日です。聖霊は、聖霊降臨日に初めて注がれたのではありません。聖霊天地創造の時から与えられているのです。
 私たち一人一人も神様の息(聖霊)によって新たに生かされたことを喜び、人々の罪を赦す者に変えられ、派遣された使命を果たすことができるよう、聖霊の助けを祈り求めたいと思います。