マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 20主日 聖餐式『神の招く祝宴で礼服を着る』

 本日は聖霊降臨後第 20主日。前橋の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、イザヤ書25:1-9、詩編23とマタイによる福音書22:1-14。説教では、「婚礼の祝宴のたとえ」から神がすべての人をその祝宴に招いていることを知り、そのことに感謝し、準備された「救い」という礼服を着ることができるよう導きを祈りました。
 聖餐式が「婚礼の祝宴」にたとえられることやテーマとの関連で「人権セミナー2023」の内容等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 連日のイスラエルパレスチナの戦闘の報道に胸が痛みます。これ以上の死者や被害が出ないよう、一刻も早い解決を心より祈ります。
 さて、週報の「報告・連絡」にも記しましたが、私とNさんご夫妻は10月2日(月)~3日(火)に京都で開催された「人権セミナー2023」に参加しました。「わたしたちはどこに立つのか、どこにいるのか、どの立場にいるのか」をテーマとして、2日は元牧師による性犯罪に関連した京都教区の二次加害について、3日は宇治市の「ウトロ平和祈念館」を訪れ民族差別を乗り越えた取組等について学びました。このことについては後ほど触れます。

 本日の福音書の箇所はマタイによる福音書第22章1節から14節です。マタイ福音書では21章からイエス様のエルサレムでの活動が始まります。本日の箇所に至るまでの文脈を確認します。
 イエス様が神殿の境内に入り教えておられると、祭司長や民の長老という当時のユダヤ教の指導者たちが近寄って来て、イエス様の権威について尋ねました。そこで、イエス様は3つのたとえ話をしました。1つ目は「二人の息子」のたとえ、2つ目は「ぶどう園と農夫」のたとえ、そして3つ目のたとえ話が本日の福音書の「婚礼の祝宴」のたとえです。

 本日の福音書の概略はこうです。
『王が王子のために盛大な婚礼の祝宴(結婚のパーティー)を催し、そこに多くの人が招かれます。しかし、招かれた人は何度招かれてもその招きに応じないばかりか、知らせに来た家来たちを殺してしまいます。招きに応じない人たちに怒りを発した王は、軍隊を送ってこの人々を滅ぼします。そして新たに招待する人を捜しに、また家来たちを派遣します。家来たちは町の大通りで本来は招かれるはずではなかった人たち、善人も悪人も皆集めて来ました。その後、王は「婚礼の礼服」、つまり婚礼にふさわしい服を着ていない人を見つけると「外の暗闇に放り出せ」と命じました。イエス様は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」とおっしゃいました。』

 このようなお話です。このたとえの中の王とは「父なる神」、王子とは「御子イエス・キリスト」であり、婚礼の祝宴とはイエス様の「救い」であると考えられます。そして、祝宴に招かれたのに応じなかった人々は「祭司長や民の長老」や「ユダヤ人」を、大通りで集められた人は「異邦人」はじめ「すべての人々」を指していると考えられます。
 
 このたとえ話で、イエス様が私たちに示し、求めておられるのはどのようなことでしょうか?   
 それについては、本日の旧約聖書イザヤ書25章1-9節が参考になります。
 6節にこうあります。「万軍の主はこの山で すべての民のために祝宴を催される。それは脂の乗った肉の祝宴 熟成したぶどう酒の祝宴。髄の多い脂身と よく濾されて熟成したぶどう酒。」と。
 万軍の主なる神は、すべての人を祝宴に招いておられます。そしてその席に着くと神様は良い肉とえり抜きの酒でもてなしてくださいます。
 9節はこうです。「その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び躍ろう。」
 ここでは、待ち望んでいた救い主が現れ、すべてのこの世の苦しみから解放された喜びが表現されています。まさに特別な祝宴を主が開いておられるのです。ここで祝宴と訳された言葉のギリシャ語は「ガモス」で、この元々の意味は「一つに結びつける」ということです。私たちを一つに結びつけるのが、祝宴であり「パーティー」であります。今日は、去る9月21日に天に召されたFさんのお兄さん(Oさん)が礼拝に参列されていますが、Fさんはお友達を招いてよくホームパーティーを開いて、手料理を振る舞っていたそうです。それはお友達を愛し大切に思っていたからの「おもてなし」だと思います。父なる神様も、私たちを愛し大切に思っているので、祝宴に招き、特別の料理を用意してくださっているのです。
 さらに言えば、古来から、聖餐式は「婚礼の祝宴」にたとえられてきました。私たちが今行っている聖餐式神の国の食卓を先取りしたものであり、それは主との食卓なのであります。

 そして、本日の福音書では、王である神様は、善人も悪人も異邦人も、すべての人を祝宴に招いておられます。すべての人の中には、この世の中で小さくされた人々、社会的弱者やマイノリティーの人々も含まれます。
 冒頭、お話しした人権セミナーですが、1日目の元牧師による性犯罪に対する京都教区の対応の問題点と2日目の民族差別を乗り越えた宇治市の「ウトロ」地区の取組。前者は失敗例、後者は成功例です。この二つに共通するのは、弱者の思いを聞く・受け止めることの重要性でした。京都教区はそれを怠ったがゆえに20年以上にわたって加害責任を負っており、宇治市の「ウトロ」地区の住民はそれを大事にしたので「平和祈念館」もでき、共生しているのです。

 神様が社会的弱者やマイノリティーの人々に特に心を配っているように、私たちもそうするように招かれているのだと思います。

 本日の福音書でイエス様は、すべての人は祝宴、つまり「救い」に招かれていると私たちに示しておられるのです。
 しかし、それに預かるための唯一の条件があります。それが「祝宴の礼服」を着ることです。これはどういうことでしょうか?
 町の大通りからたまたま連れてこられた人が「礼服を着ていない」といって王に責められるのはどう考えても不自然です。急に集められたのだから礼服を着ていないのは当然なような気もします。しかし、当時は、花婿の父親が婚礼の祝宴の衣服を準備する慣習があったようなのです。そうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになります。王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのに彼は沈黙していますが、この沈黙は彼の不服従を表しているとも考えられます。そして、客がこの好意を受けず、婚礼の祝宴の礼服を着なければ、主人である王は侮辱されることになります。婚礼の祝宴にふさわしい服(礼服)を着ることが求められているのです。
 「ふさわしい礼服」とは一体何でしょうか? このことについては本日の詩編を見たいと思います。詩編23編の1節・2節をご覧ください。
「主はわたしの牧者。わたしは乏しいことがない。神はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われる」。
「ふさわしい礼服」とはこのような主イエスに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。さらに言えば、この礼服は、神が備えられた新しい着物です。それは、救いに招かれたことへの感謝を示し、それを着るという行為は神への信仰告白であると考えられます。
 救いに招かれた感謝として「祝宴の礼服」を着ること、つまり神への信仰を告白することを神様は私たちに求めておられるのではないでしょうか?

 信仰告白とは団体あるいは個人が信仰を公にすることです。団体としては、私たち聖公会は定型の信仰告白であるニケヤ信経や使徒信経を持っています。個人としては、自分がイエス様を救い主(キリスト)として受け入れ、それに従う信仰を持っていることを公に表すこと。それはキリスト者として愛の行為を行うことが思い浮かびますが、言葉や所作で信仰告白をすることもできます。例えば、「十字を切ること」もその一つだと思います。聖公会カトリックでは、このように5本の指を広げて、額からみぞおち、そして左肩から右肩へと、十字を切ります。なお、5本の指を広げるのは、イエス様が受けた5つの傷、両手・両足と脇腹の傷に由来しています。

 私は朝起きた時、夜寝る前に十字を切っています。また、食前にも十字を切って祈っています。教会や自宅だけでなくレストラン等でもやっています。それが自分の信仰を公に表明する「信仰告白」であると考えています。皆さんも信仰告白として「十字を切る」ことをお勧めします。

 神様はすべての人を「婚礼の祝宴」という「救い」に招いておられます。そのことに感謝し、「信仰」という礼服を着てそこに出席し、神様のもてなしを受けることを主は望んでおられます。主が準備してくださった礼服を着て、天の祝宴に預かりたいものです。
 皆さん、神様は私たちのすべてを知っておられ、いかなる時も私たちを守り支えてくださる方です。その方に全幅の信頼を寄せて近づき、準備された「救い」という礼服を着ることができるよう、日々、主の導きを祈りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン