マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

「前橋聖マッテア教会の宣教初期」等から思うこと

 前々回のブログで、朝日新聞群馬版の「まちなか教会群(前橋市)」等について思い巡らしました。今回は、前橋聖マッテア教会の宣教初期から、もう少し話題を広げたり深めたりしたいと思います。
 前橋聖マッテア教会の宣教は、1889(明治22)年に始まりましたが、それ以前に群馬県においては既にキリスト教がある程度受容されていました。『統計集誌』 第82号(1888(明治21)年6月)による府県別キリスト教信徒数(プロテスタントのみ)を見ると、東京5267人、大阪1678人、神奈 川1423人、兵庫1026人についで群馬は第5位、985人であったことが記されています。その要因としては群馬県が、明治期以前から養蚕・蚕種製造・製糸および織物業が盛んな土壌であり、開国後に欧米諸国と蚕種や蚕糸等の取引によりキリスト教が持ち込まれ、それに関わる者等によってキリスト教活動が支えられたためと言われています。そし、製糸業社の社長や上司がキリスト者であるとき、関係者ことに女工たちが集団で受洗する場合が多かったゆえと考えられます。前橋製糸原社社長の深澤雄象と前橋ハリストス正教会、碓氷社社長宮口治郎と安中教会の関係などが思い浮かびます。当時「東のハリストス、西の組合」と言われるほど、群馬においてこの2つの教派は教勢を誇っていました。

 では、聖公会、ことに我がマッテア教会はどうだったかと言えば、多少違う状況だったようです。
 前橋聖マッテア教会は、1945(昭和20)年8月5日の空襲により聖堂を消失します。そのため教籍簿等、戦前の資料がほとんどありません。空襲を免れた信徒の家庭に保存された写真等を収集して資料としていますが、そのほかには日曜叢誌や基督教週報での当教会に関する記事や日本に派遣された宣教師の本国への報告等から、当時の状況を知ることができます。
 前任者の平岡司祭から引き継いだ資料の中に、The Japan Mission of The American Church (Robert W. Andrews)がありました(出版は1908年)。

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 著者のアンデルス司祭は1899(明治32)年に来日し、京都及び北東京地方部(現在の東京教区の一部並びに北関東及び東北教区)で伝道し、当教会には1911(明治44)年に赴任しました。
 The Japan Mission of The American Church (Robert W. Andrews) の中に、「前橋MAEBASHI」の項目がありました。

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 「MAEBASHI」を翻訳しました。
『この宣教はH. S. ジェフリー師によって18~19年前に始められた。当時、彼は前橋中学校の英語教師であった。彼は、聖書を学びたい生徒のために聖書クラスを始めた。希望者が多数ゆえ、礼拝を守り「人々への説教」を決心して、彼の自宅に集まるようになった。
 人数も増えていき、聖マッテアでの宣教が始まり盛んとなり、ジェフリーがその学校を去った時、主教はJ. L. パットン師を派遣し、当地での定期の宣教が定着した。当時、日本での宣教は困難を極め、どんな理由でも宣教を妨げられることがあった。ある時はパットン氏の犬が人を噛み、反感を買い彼の排除運動にまで発展した。J. アンブラー師が彼の後を引き継いだ。当時、アーヴィングの教義が日本で普及しており、彼はそれを奉じていた。
 L. ドーマン師が引き継ぎ、その後、すぐにジェームズ・チャッペル師に代わり、彼の慎重な働き振りで宣教は上向きに発展した。新しい息吹きが人々の間に芽生え始めた。種が蒔かれ、育ち、成長した。外国人宣教師のための家付きの土地が購入されて新しい教会が建てられた。チャッペル氏はそこに5年間滞在した。そして彼が一時帰国した後にチャールズ師が入り、今も現職である。聖なるこの職務は今も激しい迫害の下にはあるが、今までになく生き生きと遂行されている。この聖職にある者の常ではあるが、希望を持って勤めている。
 エヴァンス氏は彼の有能な夫人の助け、またクララ・ニーレー女史や北澤伝道師の援助で働いている。これ以上の人材はいない、それこそが「大成功の宣教」である。彼らの働きこそが賞賛されるべきもので、前橋の教会でのしっかりとした働きを達成している。筆者は4年間、エヴァンス氏の現在の伝道師と一緒に仕事をしたが、この良き働き人とその清廉な生き方を賞賛し書き留めたい。彼以上の真実の友、丁寧親切な相方(相棒)はいない。彼ほど誠実で良心的な信頼できる伝道師は日本聖公会には、今はいない。
エヴァンス氏が言うには、前橋での宣教の最大の問題は、あらゆる宗教に対しての無関心である。宗教に対して無関心な土地柄である。寺でさえ放置され朽ちるに任せてある。神仏にいざなう早朝の太鼓の音も無関心な耳には聞こえず、人々は忙しさを理由に祈ることも忘れて国中に物質主義が蔓延している。
 さらにこの地域の生活には大きな問題がある。豊かさとは縁遠く、めぼしい産業も大きな企業も存在しない。生活は厳しく、生きていくことだけでも多くの困難を伴っている。祈る時間もなく神への信仰から得られるであろう導きにもご加護にも関心を払わず、明日のことを思い煩っている。日本に限られたことではないが、これらの問題が解決されて過去の話になるときにこそ、新しい世紀が来るのであろう。
 他の多くの宣教同様に、この宣教でも素晴らしい日曜学校がある。それゆえ、教会における将来の見通しにも光が見える。日本での企ての進展に伴いエヴァンス氏はしばらくの間、教区のための機関誌を発行していた。それは宣教の伝達手段として大いに役立った。(日本の)教会では初めての方法と確信する。
 聖公会以外の宗教団体も大きな働きをこの地域と町で果たしている。特筆すべきは組合派教会である。組合派伝道者である新島襄博士もこの地方の出身者である。そして、彼らの成果は自活(自給)である。将来の見通しは明るく希望に満ちている。過年の1906年に多くの若手企業家が集まり、新しい生命の注入が奇跡を起こしている。
 過去数年にわたり数日の午後に警察関係者のための英語講座が企画された。彼らは警察幹部により選抜された犯罪科学にも秀でた良識者であった。2~3年の英語講座が報奨だった。今年は5名の男性がこのクラスから洗礼を受けた。これだけでなく、警察からの親切な厚意が教会の活動の大きな助けとなった。(社会的に)大きな信用と影響力のある方々との良き関係は教会の働きに大きく寄与している。
 前橋地区の周辺は高崎、熊谷、玉村、そしてわずかではあるが信徒が所々に点在している妙義と鳥居があり、担当牧師である司祭ができる限り訪問している。』

 この記事により、前橋の宣教初期の一端を知ることができます。「前橋での宣教の最大の問題は、あらゆる宗教に対しての無関心である。」「生活は厳しく、生きていくことだけでも多くの困難を伴っている。」とあり、この地における宣教の難しさを語っています。しかし、日曜学校や機関誌の発行及び組合派教会の大きな働き並びに英語講座や警察関係者の受洗等について記し、明るい兆しがあることが感じられます。
 今回、私は「警察からの親切な厚意が教会の活動の大きな助けとなった。(社会的に)大きな信用と影響力のある方々との良き関係は教会の働きに大きく寄与している。」の文言に注目しました。

 私たち聖公会は、1534年の英国での創立から政治や経済、教育・医療・福祉等で、大きな働きをしてきました。国家や体制と強い関係性のある教派と言えます。それは、アメリカの初代大統領のワシントンはじめルーズベルト等多くの大統領(最近ではブッシュ大統領(父))が聖公会の信徒だったことや、日本に開国を迫ったペリー、GHQのマッカーサー元帥等多くの軍人(最近ではパウエル国務長官)が聖公会の信徒だったことからも言えると思います。その意味ではこの世の仕事と信仰がつながっている教派とも言えるのではないでしょうか? 

 信仰の証として社会への貢献を行ってきた先達が多くいます。立教大学創立者でもある日本聖公会最初の主教であるC.M.ウイリアムズや聖路加病院を設立したL.トイスラー、日本最初の障害者施設である滝之川学園を創設した石井亮一等々です。
 聖公会が大切にしてきた宣教の5指標(アングリカン・コミュニオン)の中の「③愛の奉仕によって人々のニーズに応答すること」、教会の5要素の中の「3生活の中で福音を具体的に証しすること<マルトゥリア> 」を思います。
 日本、そして前橋の宣教初期においてもその精神は生きていたと考えます。これからも私たちは、「社会的に大きな信用と影響力のある方々との良き関係」を大切にしつつ、信仰の証として社会へ貢献する宣教に努めたいと思います。