マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 19主日 聖餐式『神の実りのため主に仕える』

 本日は聖霊降臨後第 19主日。新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、イザヤ書5:1-7、詩編80:14-19とマタイによる福音書21:33-43。説教では、収穫(実り)とはイエス様によって実現される「救い」であることを知り、それを受け取り、私たち一人一人が神の実りのために日々、主に仕え御名の栄光を現すことがことができるよう祈り求めました。
 「実り」にかかわり思い浮かんだ「人権セミナー2023」の内容やマザー・テレサの言葉等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 週報の「報告・連絡」にも記しましたが、先日、2日(月)~3日(火)に京都で開催された「人権セミナー2023」に参加しました。「わたしたちはどこに立つのか、どこにいるのか、どの立場にいるのか」をテーマとして、2日は元牧師による性犯罪に関連した京都教区の二次加害について、3日は宇治市の「ウトロ平和祈念館」を訪れ民族差別を乗り越えた取組等について学びました。

 さて、本日の福音書はマタイによる福音書21章33-43節です。
 「二人の息子」のたとえに続き、イエス様はエルサレム神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のイスラエルの指導者たちに対して、この「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。 

 本日の福音書の箇所を振り返ってみましょう。
『ぶどう園の所有者であるぶどう園の主人が、ぶどう園に必要なすべての施設や設備を整えて、これを農夫たちに貸し、旅に出かけました。収穫の時が近づいたので、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送りました。
 ところが、農夫たちはその僕たちを捕まえて、殺してしまい、さらに、ぶどう園の主人は、ほかの僕たちを、前よりも大勢送りましたが、農夫たちは、また同じ目に遭わせて殺してしまいました。
 そこで最後に、この主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送りました。すると、この農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう。」と言って、その主人の息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して、殺してしまいました。これは、当時の決まりでは、相続人のいない財産は最初に占有した者の財産となりますが、息子が送られてきたので、農夫たちは主人が亡くなったと判断し、息子がいなくなればその財産を自分たちが手に入れられると考えたのかもしれません。
 このたとえを聞いていた祭司長や民の長老たちに、イエス様は、尋ねました。
「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と。
 すると彼らは、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」と、答えました。
 そしてイエス様は、詩編の118編22節から引用して、このように語られました。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議なこと。」
  「隅の親石」とは建物を建てる時に土台となる石です。捨てられた石が、別の家を建てる時に用いられ「隅の親石」という大事な役割が与えられることもあるというのです。「これは、主がなさったこと」。人間の知恵では計ることのできない驚くべきことが起こると、神様を讃えています。そして、「神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。」とイエス様は言われました。』
   
 このたとえにおける、「ぶどう園の主人」とは神様、「ぶどう園」とはイスラエル、さらには「神の国」を意味すると考えられます。「農夫」と訳されたギリシャ語のもともとの意味は「農業労働者」ですが、転じて「小作人」を意味するようになりました。聖書協会共同訳聖書では、別訳に「小作人」とあります。この農夫、すなわち小作人ですが、それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。また、「主人が送り込んだ僕たち」とは、預言者たち、すなわち旧約聖書に出てくるエリヤとか、イザヤとか、エレミヤなどの預言者たちを指しています。そして、「最後に送られた息子」とは、イエス様のことを指しています。さらに、「捨てられた石が隅の親石となる」とは、受難と死を経て、イエス様は復活し、「新しいイスラエルである教会の土台となる」ということが、予言されています。

 この「たとえ」を通して、イエス様は、私たちに何を示し、どうすることを求めておられるのでしょうか? 
 そのためには、先ほどお読みしました本日の旧約聖書イザヤ書5章が参考になります。ここの1節から7節は、「ぶどう畑の歌」と題がつけられた預言者イザヤの歌です。これは、イエス様がお生まれになる約700年前に南ユダ王国で活躍した預言者イザヤが預言した言葉です。分かりやすく言えばこのような内容です。
『神様が言われます。私は、日当たりが良く、よく肥えた丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。そのぶどう畑の真ん中に、見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。私が、ぶどう畑のためになすべきことはみんなした。私は、良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。このぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、私は、このぶどう畑を見捨てる。』
 これはイスラエルの不実を嘆く神様の歌です。ここでは神様の期待を裏切って勝手気ままに振る舞うイスラエルの指導者たちが批判されていると考えられます。

 本日の福音書においても、神様から送られた預言者たちの声に耳を傾けない農夫にたとえられたイスラエルの指導者たちが批判されています。しかし、福音書にはそれだけでない神様の深い思いが隠されているように思われます。マタイ21:34にこうあります。
「収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」
 ここの「収穫]と訳されたギリシャ語は「カルポス」。ギリシャ語辞典では「実・果実・実り・収穫」とありました。ここでは「実り」がふさわしいと思います。「収穫を受け取るため」を原文から直訳すると「彼の実りを取るため」となり、主人である「神様の実りを取るため」という意味になります。英語の聖書(NIV)でも「収穫」はhis fruit(彼の実り)でした。「彼の実り」・「神様の実り」とは何でしょうか? それは神様の息子であるイエス様によって実現される「救い」と考えられます。イエス様の受難と復活を経て私たちに与えられる「救い」です。
 それを受け取ってほしいと神様は願っておられるです。この「たとえ」を通して、イエス様は、私たちにそのことを示そうとしておられるのだと思います。

  「実り」、英語で「fruit」という単語で思い浮かべる言葉があります。それはこの本「A Fruitful Branch on the Vine, JESUS(ぶどうの木の実り豊かな枝、イエス)」の中にあるマザー・テレサの言葉です。

 受付に置いた、この部分をコピーし和訳を右に示したB5の用紙をご覧ください。

こうあります。
『The fruit of SILENCE is Prayer  The fruit of PRAYER is Faith 
  The fruit of FAITH is Love  The fruit of LOVE is Service
  The fruit of SERVICE is Peace    Mother Teresa』
  マザー・テレサは出会う人にこの言葉を名刺にして手渡していたそうです。和訳もご覧ください。
『沈黙の実りは祈り 祈りの実りは信仰 信仰の実りは愛 愛の実りは奉仕
 奉仕の実りは平和』
「沈黙の実りは祈り」で始まり「沈黙→祈り→信仰→愛→奉仕→平和」という順序で「実り」が示されています。一番最初の実りが「祈り」で最後の実りが「平和(平安)」となっています。ウクライナでの戦闘等を思うとき、この言葉の順序の重みを感じます。
 ブログでも記しましたが、私は人権セミナー後の先週4日(水)には太秦広隆寺を訪問し、国宝第一号である弥勒菩薩像の前でしばらく沈黙のうちにたたずみました。それは聖体訪問とも共通する祈りの時であり、最終的には心の平安を得たように思います。マザーの言葉に照らせば、まずすべきことは沈黙・祈りであり、それが信仰・愛・奉仕と実を結び、最終的には平和(平安)をもたらすのです。そして、それらはイエス様の「救い」によって実現されるものであり、それをただ感謝して受けることが私たちに求められていると考えます。

 冒頭、お話しした人権セミナーですが、1日目の元牧師による性犯罪に対する京都教区の対応の問題点と2日目の民族差別を乗り越えた宇治市の「ウトロ」地区の取組。この二つに共通するのは、弱者の思いを聞く・受け止めることの重要性でした。京都教区はそれを怠ったがゆえに20年以上にわたって加害責任を負っており、宇治市の「ウトロ」地区の住民はそれを大事にしたので「平和祈念館」もでき共生しているのです。丁寧な配慮が「実り」をもたらすのだと思います。
 
 本日の福音書に戻れば、私たち一人一人も土地を持たない農夫、小作人だと思います。つまり、神様から全てを借りているのです。だから私たちは神様の小作人として働きます。そして実りは「神の実り」ですから当然神様にお返しするのであって、自分のものにするのではありません。私たちは、自分のためではなくて、神様のために働くのです。あるいは、神様の実りのために、私たちは奉仕するのであります。

 「古いイスラエル」に代わって、「新しいイスラエル」が建てられました。それは主の家族である教会です。これこそ、「隅の親石」です。その教会を神様が恵みを持って守り導き、そして、私たち一人一人が日々、神様の実りのために主に仕え、御名の栄光を現すことができるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン