マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第6主日 聖餐式『イエス様につながっていく』

 本日は復活節第6主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、ペトロの手紙一3:8-18、詩編148:7-14とヨハネによる福音書 15:1-8。説教では、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であることを知り、御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めました。
 聖書時代のイスラエル地方のぶどう園及びぶどうの手入れを記した図等も活用しました。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 週報の「報告・連絡」にありますように、新型コロナウイルス感染症が5月8日から5類感染症に移行となりました。これまでの配慮を継続するとともに、徐々に以前の礼拝に戻したいと思います。本日から祈祷書181ページの「近づきの祈り」を唱え、二種陪餐をインティンクションで行いたいと思います。
 
 さて、本日は復活節第6主日です。復活節は復活日(イースター)から聖霊降臨日(ペンテコステ)までの50日間ですが、本日は復活日(4月9日)から36日目、今週の木曜(18日)が40日目で昇天日です。その日には前橋聖マッテア教会で10時30分から昇天日聖餐式が行われます。よろしければご参加ください。

 本日、復活節第6主日の聖書箇所ですが、使徒書はペトロの手紙一3:8-18で 、正しいキリストが正しくない者たちのためにただ一度苦しまれ死なれたが、霊では生きる者とされたこと、迫害の中で教会が義のために受ける苦難は幸いであるということを勧める箇所です。
 福音書は、先主日に続き、ヨハネによる福音書のイエス様が弟子たちに語った告別説教といわれる箇所から取られています。
 今日の箇所は15章1-8節で、イエス様がぶどうの木、私たちはその枝、そして父なる神様が農夫にたとえられています。この箇所で印象的なのは「つながっていなさい」または「つながる」というイエス様の言葉です。1節から8節までで9回も使われています。何のためにつながるのかということが「実を結ぶ」という言葉で説明され、これも7回出てきます。「実を結ぶためにつながる」ということが、本日の箇所のテーマではないかと考えられます。

 2節にこうあります。
「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
 ここの「取り除き」とはギリシア語の「アイロー」で、「持ち上げる、取り上げる」ことです。それに対し「手入れをなさる」と訳された語は「カサイロー」で、「清める、剪定(せんてい)する」という意味です。
 この図をご覧ください。聖書時代のイスラエル地方のぶどう園及びぶどうの手入れを記した図です。

  ぶどうはイスラエルの農村の最も重要な作物であり、日当たりのよい丘の斜面に帯状に植えられ、ぶどう園には見張りやぐらがあり、今の日本のようにぶどう棚を作るのでなく地面を這わせ、農夫により取り上げられたり剪定されたりして入念に手入れされました。それにより、豊かに実が結ばれるのです。

 イエス様は、「私につながりながらも実を結ばない枝は、天の父が取り除かれる」と言われます。何ら実を結ばないならば、天の父なる神様が取り除かれます。しかし、イエス様につながって少しでも実を結びはじめたら、もっと実を結ぶようにと剪定されるのです。
 取り除かれた枝は「投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)、そのように否定的な言葉がまた語られていますから、自分は取り除かれてしまう枝なのか、それとも残される枝なのか、ということが気になるかもしれません。
 そのことについては、3節後半にある「あなたがたはすでに清くなっている」という言葉に注目します。ここの「清くなって」と訳された言葉は「カサロイ」でそれは「手入れをなさる」と訳された「カサイロー」から派生した言葉で、その意味に従って訳すと「あなたたちはすでに手入れがすんでいる」(本田哲郎神父訳)
となり、私たちはみな神様によって手入れされ残された枝であることが分かります。私たちはイエス様につながる枝として、エネルギーを与え続けてくださるイエス様からそれを受けながら生きるのです。

 5節にこうあります。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
 イエス様は別れを前にした弟子たちに語っています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。イエス様はご自分のことを「ぶどうの幹である」とおっしゃっているのではありません「ぶどうの根である」と言っているのでもありません。「私はぶどうの木である」とおっしゃっているのです。つまり、根も幹も枝も含めたぶどうの木全体であると言うのです。そして弟子たちに「あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。つまり「あなたがた枝は、ぶどうの木である私の一部である」とおっしゃっているのであります。  
 ここで「つながる」と訳されているこの元々のギリシャ語は「メノー」という言葉です。先主日福音書箇所の「私の父の家には住む所がたくさんある。」
ヨハネ14:2)の「住む」も原文は「メノー」でした。「メノー」の本来の意味は「ある場所や状態に留まる」ということです。そこから「つながる、留まる、住む、離れないでいる」という訳になります。「人が私につながって(メノー)おり、私もその人につながって(メノー)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とはキリスト者とイエス様との深い交わりを表しています。
 イエス様は、ここで弟子たちに「ぶどうの枝になりなさい」と言っているのではありません。「あなたがたはその枝である。」と断定されているのです。そして、この言葉はイエス様の弟子である私たちにも向けられています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。このままイエス様につながっていれば豊かに実を結ぶことができるのです。これこそ福音(よい知らせ)です。

 再度、6節の言葉に注目します。それは「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と脅かしのようにとらえかねない言葉です。これはどういうことでしょうか? この前後をよく読みますと、4節の「私につながっていなさい」には「私もあなたがたにつながっている」という言葉が続いています。同様に、5節でも「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」と語られ、7節では「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」と述べられています。つまり、「私につながっていなさい」という命令には、「私もあなたがたにつながっている」からというイエス様の慰めの言葉が付いているのです。単に、「イエス様につながりなさい」と言っているのではありません。先に、「イエス様が私につながっている」のです。

 具体的に、私たちはどうしたらいいでしょうか? 日々聖書を読み、み言葉を聞き、祈る、礼拝に出席する、教会に連なる、そのようなことが考えられます。信徒である私たちは、聖奠(サクラメント)である洗礼と聖餐でつながることができます。特に聖餐式での陪餐、イエス様の体とイエス様の血をいただくことで、私たちは養われ、育てられるのであります。。

 さらに言えば、祈祷書の聖餐式の式文で、本日からまた唱える181ページの「近づきの祈り」の後半で、私たちは、このように祈ります。
 「恵み深い主よ、どうかわたしたちが、み子イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み、罪あるわたしたちの体と魂が、キリストの尊い体と血によって清められ、わたしたちは常にキリストにおり、キリストは常にわたしたちにおられますように アーメン」
「わたしたちは常にキリストにおり、キリストは、常にわたしたちにおられますように」。この祈りと共に、主イエス・キリストの肉と血に与ることこそが、「私につながっていなさい」と言われる、イエス様の言葉が、目に見えるかたちで示される「大切な時」なのではないでしょうか?
「イエス様につながること」の大切さを噛みしめたいと思います。

 ところで、冒頭お話ししましたように、今週の木曜(18日)が昇天日です。私たちは「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事としてとらえたいと思います。「復活」は、イエス様が死に打ち勝ち今も生きているという面を表します。「昇天」は、イエス様が神様のもとに行き、そこで神様と共に永遠の命を生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」は、イエス様が目に見えないけれども私たちのうちに今も働いていてくださることを表していると言えます。特に、「昇天」から「聖霊降臨」については、神様とイエス様の恵みを覚え、今回、管区から送られてきた小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」を毎日使用することで、この意味も実感することができると考えます。

 この「祈りのしおり」は昨年から主教会が黙想文を作成し、日本社会に即した内容となっています。ぜひ18日(木)から毎日、この小冊子を活用してほしいと思います。

 皆さん、私たちはぶどうの枝であり、ぶどうの木であるイエス様の一部であります。御言葉を聞き、祈り、聖餐に預かるなどの恵みに感謝し、イエス様につながっていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。
  父と子と聖霊の御名によって。アーメン