マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

「まちなか教会群(前橋市)」に思う

 日曜の朝、朝日新聞群馬版に前橋市内の「まちなか教会群」の記事が載り、当マッテア教会や私の話も紹介されていました。「まちなか教会群」というのは元々、前橋市文化スポーツ観光部文化国際課が発行した「まえばし歴史散策ガイドブック」の中でネーミングされたものと思います。そのページを下に示します。

 この中で、「県都前橋にキリスト教諸派の教会が密集するという、世界にも、稀なる歴史空間が出現」と記されています。昨年11月には前橋市文化国際課主催のこの5つの教会を巡る企画があり、2つの班、合計20名ほどの方が当教会にも訪れ私が説明をしました。このガイドブックや前橋市のガイドマップを手に、聖堂を訪れる方も時折いらっしゃいます。
 先日の新聞記事は以下のようでした。

 この中で当教会はこう紹介されています。
聖公会は1889(明治22)年に前橋で活動を始めた。前橋城内(現在の県庁付近)にあった県立前橋中学校に米国人宣教師ジェフリスが英語教師として赴任したことがきっかけだ。詩人の山村暮鳥は教会の英語夜学校に通い、後にここで洗礼を受けた。福田弘二牧師(67)は「知識階級や、英語に触れて田舎の因習から抜け出したいと思った人たちが信仰の中心だったのでは」。』
 紙ベースの新聞記事はそれだけでしたが、デジタル版にはマッテア教会の聖堂や私の画像も紹介されていました。下のアドレスをクリックしてください。

ひしめく教会、宗派超えて仲良く 歴史感じた「上州人のアバウトさ」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 私が新聞記者に話した「知識階級や、英語に触れて田舎の因習から抜け出したいと思った人たちが当初の信者だったのでは」という言葉の裏付けとしては、1889(明治22)年12月22日に最初の受洗者3名が生まれますが、全員が群馬師範学校の生徒だったこと等が挙げられます。当初は、県立前橋中学校の英語教師を兼務する米国人宣教師が通訳を介して礼拝を行っていたようです。なお、当時の前橋中学校は紅雲町(現在の群馬中央病院の辺り)にありました。なかなか英語や欧米の文化に触れることが難しかった当時、英語夜学校を開設していた当教会に英語や欧米の文化等にあこがれた人たちが集まっていたことは想像に難くありません。その典型が後に詩人になった山村暮鳥(当時は木暮八九十)です。彼は代用教員だった堤が岡小学校から往復7里(約28キロメートル)を歩いて、我がマッテア教会の英語夜学校に通いました。そして、暮鳥は、1902(明治25)年6月6日に当マッテア教会でチャペル長老(現司祭)により受洗しました。18歳でした。なお、暮鳥はその後東京聖三一神学校に入学し伝道師になりますが、結核に冒され40歳の若さで天に召されました。

 前述した朝日新聞群馬版の「まちなか教会群(前橋市)」の記事では、「隣接する3つの教会は信徒の層が別々だったことで共存できたのではないか」というような論調がありました。ハリストス正教会は士族や製糸業の関係者、教団前橋教会は政治家などの有力者、マッテア教会は知識階級や英語に触れて田舎の因習から抜け出したい人たち、と。これは結果的にこういうふうにも考えられるということであって、意図的に宣教対象を絞ったわけではありません。私の若い頃はハリストス正教会はクリスマスやイースターの日取りが違っていて、我が教会のクリスマスイブのパーティーのテーブルに「ハリストス正教会様」とプレートを置いて、ゲストを招き交わりがありました。また、教団の教会の日曜学校の聖劇に呼ばれて見に行ったこともありました。「争う」というより「共存」していたと思います。

 今回の紙面で紹介された5つの教会とも、既に創立から100年以上が経っていて、信仰の継承がなされてきた結果として、今日まで存続してきたといえます。マッテア教会の会衆席(ネイブ)に座るとき、様々な時にこの席で祈りを捧げてきた多くの信徒のことを思います。この地にキリスト教諸派の教会が密集しているのは、それぞれの教会で信徒の祈りが続いてきたからであり、そして、それを支えてこられた神様のみ守りと導きがあったからです。その主に信頼して、日々の信仰生活を送って参りたいと思います。