マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第19主日『自負心を捨て、命(神の国)に入る』

 本日は 聖霊降臨後第19主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、民数記11:4-6・10-16・24-29、詩編19:7-14、ヤコブの手紙5:13-20及びマルコによる福音書9:38-50。説教では、イエス様は「自分たちはキリストの弟子である」という変な自負心を嫌い謙遜なる信仰者を評価しておられることを知り、自負心や自分に罪を犯させるものを捨てて命(神の国)に入ることができるよう、祈りを捧げました。
 「私たちに逆らわない者は私たちの味方」の例として、前橋の教会で行っている「キリスト教文化入門」や「第1土曜カフェ・マッテア倶楽部」についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私は先週、9月17日(火)から20日(金)まで聖公会神学院の説教セミナーに参加しました。家に戻り土曜の朝熱を測ったら38度あり、念のため発熱外来を受診したところ、コロナの陽性が出てしまいました。幸い、良い薬を処方してもらい、翌日には6度台まで熱が下がりました。その日から1週間が経過しました。ただ、まだ少し咳が出ます。そこで、念のため本日は一種陪餐(パンのみ)とし、ご自分で御聖体をとっていただく形にしました。
 また、9月19日(木)には、本日礼拝に参列されておりますS・Kさんの夫、Tさんが逝去され、葬儀の依頼があり、翌日説教セミナーを午前中だけで切り上げ、夕方みどり市の御自宅に伺い、逝去直後の祈りをお捧げしました。しかし、既に申し上げたとおり土曜の朝にコロナの発症が判明したため、榛名の大山洋平司祭に葬送式の司式・説教をお願いすることとしました。多くの方々の協力で滞りなく葬儀を執り行うことができ感謝です。S・Tさんの魂の平安とご遺族に慰めがありますようお祈り申し上げます。

 さて、本日は聖霊降臨後第19主日です。本日の福音書はマルコの9:38-50です。今、イエス様と弟子一行はエルサレムに向かう途上であり、イエス様が再びご自分の死と復活を予告され、弟子たちが「誰が偉いか」と論じ合った直後の箇所です。
 ここでは、ヨハネが弟子を代表してイエス様に問い、イエス様が弟子を代表したヨハネに答えています。 
 この箇所は3つに分かれると考えられます。
 まず38-41節 で「私たちに逆らわない者は私たちの味方」とイエス様が言うところ、次に42節で「イエス様を信じる小さな者をつまずかせる者への警告」が述べられているところ、そして、43-50節で「自分をつまずかせるものを捨てて神の国に入ることの勧め」です。
 本日の箇所について思い巡らします。

 まず、38-41節です。 
 イエス様や弟子たちに従わずに、イエス様の名を使って、悪霊を追い出していた人物がいたようです。弟子のヨハネは憤慨し、「これをやめさせた」と言いました。
 すると、イエス様は、それに対して、「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」(39・40節)と言われました。
 ここでは、イエス様の名を使って悪霊を追い出している人たちに対して、イエス様は逆らわない者は味方であると、寛容に受けとめておられます。
 その例として、「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(41節)とイエス様はおっしゃっています。弟子が弟子であるのは、キリストに属するからであり、その弟子に水一杯を飲ませてくれる人は必ず報酬を受けると言われるのです。
 ここでは、イエス様の言葉の、その寛容さの中に、弟子たちの特権意識や閉鎖性を、問題にしておられることが分かります。イエス様に従っているのは自分たちだけなのだ、という自負心(プライド)を、イエス様は問題にしておられるのであります。「自分たちはキリストの弟子である」という変な自負心(プライド)をイエス様は嫌っているのです。
 ここではイエス様が「私たちに逆らわない者は私たちの味方」とおっしゃったことにも心を留めたいと思います
 私たち前橋聖マッテア教会では、今年の1月から月2回「赤毛のアン」を英語で読むという「キリスト教文化入門」や7月から会館で「第1土曜カフェ・マッテア倶楽部」を実施しています。

 ここには、地域の方や未信徒の方も含め毎回10人前後が参加しています。ご協力いただいている方々に感謝申し上げます。そのほか、従前から大人に絵本セラピーを行う「絵本の園」や群馬室内合唱団等のコーラス団体等に会館や聖堂をお貸ししてきました。聖公会の特色である「教会は地域のためにあること」を踏まえ「私たちに逆らわない者は私たちの味方」の精神で、地域の方や教会に関心のある方等へオープンにして歓迎していきたいと思います。
 「一杯の水」は、人や状況によって違いますが、私たちがそれを有り難くいただくと共に、私たちも地域の人たちや周辺の人たち等に生きるために必要な「一杯の水」を差し上げていきたいと思います。

 続く、42節でイエス様はこう言われます。
『また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。」』
  イエス様を信じる小さな者を「つまずかせる」者は、大きな石臼のような重りを首に掛けられて死んでしまったほうがよいと言われるのです。
 ここの「つまずかせる」はギリシャ語では「スカンダリゾー」で、英語のスキャンダルの元になった言葉です。この語は、実際につまずくことや罠にかけることのほか、ここのように信仰からの離反を促す意味として使われています。
 また、「私を信じるこれらの小さな者」とは、イエス様によって癒やされた人々やイエス様を受け入れた者や一杯の水を飲ませてくれた人等、イエス様を信じる者の呼称(呼び名)です。「その者をつまずかせてはならない」とイエス様は教えておられます。子どもなど謙遜なる信仰者をイエス様は大切にして、報いをお与えになるのです。
 
 43節から47節では、「手」「足」「目」が小さな者を「つまずかせる」ならば、それを切って捨てよ、との教えが繰り返されます。ここで、「手」「足」「目」は、「つまずかせる」ものを象徴的に表しており、「自分をつまずかせるものはすべて捨て去るように」と教えていると考えます。さらに、「命(神の国)に入ることは、ゲヘナの中へ投げられるより良い」と教えておられます。「ゲヘナ」はこれまでの聖書では「地獄」と訳されていましたが、今回はギリシャ語原文の発音通り「ゲヘナ」と表記されました。ゲヘナ(ゲー・ヒンノーム)とは「ヒンノムの谷」の意味で、エルサレムの南にあり、町の汚物、動物や罪人の死体をそこで焼却していました。そのため、死後、悪人が罰せられる場所、つまり地獄の同義語となったようです。
 ちなみに、この箇所を見ると、44、46節は省かれていて、そこに短剣のような記号「†」が付けられています。これは今回の訳がもとにしたギリシア語聖書(底本)で省かれている箇所の印です。写本によってはこの2箇所に「ゲヘナでは蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない」という48節と同じ言葉があるのですが、現代の学者は本来のマルコ福音書になかったと考えています。そこで今回の訳では省かれています。
 43節以降では、手や足や目がつまずきになるなら、大きな苦痛が伴ってもその片方を捨て、神の国という命の世界に入るほうが良い、ということが述べられています。つまずかせることは罪であり、自分に罪を犯させるものを捨てて悔い改める者が、神の国に入って永遠の命を得ることができると言っています。さらに49・50節で「塩」について言及されます。「塩」は食物の保存や味付けに使われました。「火で塩気を付けられ」るとは弟子たちが清いままでいることを言います。「自分自身の内に塩を持」ち「互いに平和に過ご」す、つまり、弟子たちは清いまま、平和の内に過ごすことが求められています。

  このような箇所でした。
 イエス様は、弟子たちの狭い心、排他的な考え方、特権意識や自負心について、きびしく戒められました。そして、「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。」と、はっきりと宣言されました。
 また、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」とありますが、小さな者の一人をつまずかせないようにすることこそ、最も大事なことだとイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか?
  「小さな者の一人をつまずかせ」たら重大なことだ、そのことに「私たちは心を配りなさい」ということをイエス様はおっしゃっています。このイエス様の言葉を心に刻みたいと思います。

 冒頭でお話ししましたように、本日の福音書では、ヨハネが問い、イエス様が答えています。 
 この時点では、ヨハネはイエス様の受難の意味も、弟子の在り方(イエス様に仕えるということ)も神の国に入るための心構えも分かっていません。しかし、ヨハネは「イエスの愛する弟子」であり、イエス様が十字架につかれた時にマリアたち女性たちと共に主の十字架を目撃し、イエス様がマリアに「あなたの子です」と言われる存在となる者であります。ヨハネが真のイエス様の弟子になるのは復活のイエス様に出会ってからです。

 私たちはこれから主の聖餐に与ります。聖餐式神の国の先取りで、私たちが主イエス様を食べ永遠の命につながる聖奠(サクラメント)です。聖体拝領の前には必ず懺悔(悔い改め)をします。それは本日の福音書で述べた、罪を捨てて悔い改める者が、神の国に入り永遠の命を得ることができることと同様です。この後、感謝と喜びを持って御聖体をいただきましょう。
 イエス様は私たちが開かれた姿勢、寛容の精神を持つことを求めておられます。「逆らわない者は、味方なので」す。そして、イエス様は謙遜なる信仰者を評価しておられます。私たちが、自分に罪を犯させるものを捨てて、命(神の国)に入ることができるよう、共に祈りを捧げたいと思います。 

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン