マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「パウロのとげ、ナウエンの傷」に思う』

 去る8月31日(土)のFEBCキリスト放送の番組「交わりのことば―ありのままで御前に留まり続けた人、ヘンリ・ナウエンの姿から」(酒井陽介神父)で、人の弱さとそこで出会う主イエスについての考察に心惹かれました。以下のURLで聞くことができます。開始して34分後くらいです。
https://www.febcjp.com/2024/08/
                                              
 この放送の冒頭でパウロの言葉が紹介されました。 コリントの信徒への手紙二12:1〜10です。
『1わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 2わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 3わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 4彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 5このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 6仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 7また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』

 ここでパウロは自分に与えられた「とげ」、それは自分が思い上がらないように神から与えられたものだと理解しています。パウロはそれを取り除くよう赤裸々に神に願いましたが、神はそのままにされたことを記しています。この「とげ」とは聖書に明言はしていませんが、彼の何らかの持続する病、精神的な不安、彼が直面した迫害と考えられています。パウロの持病、それはてんかん、またはうつ病だったのではないかと言う人もいます。
 いずれにしても、この「とげ」、彼の弱さゆえに、そこに宿るキリストの力にパウロは頼り委ねたのでした。番組ではそこにヘンリー・ナウエンとの共通性を見出していました。
 酒井神父はナウエンの晩年の著作「最後の日記」の文章を引用していました。

 久しぶりにこの本を取り出して確認しましたら、P.24 にある文でした。
『わたしの祈りの「闇」と「渇き』は、神が不在であることのしるしだろうか、それともわたしの感覚では、深すぎて、大きすぎて感じることができないものの証しだろうか? わたしの祈りが無感覚になったのは、神との親密な交わりが終わったということなのか、それとも言葉や感情や肉体的な興奮を超越した、新たな神との親交の始まりなのか?』
 このようにナウエンは赤裸々に自分の弱さや自分の感情を吐露しています。このような自分の不自由さや矛盾等を思いのままに語るのがナウエンの魅力とも言えると、酒井神父は言っています。先ほどの日記は1995年9月3日に記されていますが、その月の下旬27日の日記(P.51)にはこうあります。
『もう長い年月、わたしは傷を負ったまま生きてきた。愛情に対する限りない飢え、人々からのけ者にされるのではないかという限りない恐れ-この傷が癒えるとは思えない。いつもわたしを苛む。だが、それなりに理由があるのだろう。この痛みは、わたしへの救いの入り口、栄光への扉、自由への通路かもしれない! この傷は、傷のかたちを借りた恩寵だということを、わたしは知っている。』
 番組ではこの箇所の後半が紹介されていました。「傷は、傷のかたちを借りた恩寵だ」と。私もマッテア教会の聖堂で一人祈っていたあるとき、「傷も賜物だよ。」という声が聞こえたような気がしました。それは傷には何かの意味があり、それによってキリストとつながることができるから、恩寵であり賜物なのだと思いました。そこにキリストの力が宿っているのです。

 番組では聞き手の長倉さんが「弱さがきっかけで教会に行く、聖書を開くこともありますよね」と言っていました。人の弱さ、それが「恩寵」になるのは神と出会うからです。
 パウロもナウエンも、与えられた「とげ」や「傷」に意味を見出し、それを神や主イエスと出会うための「恩寵」と理解したのです。このようなとらえ方を大切にしていきたいと思います。