マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

顕現後第6主日聖餐式 『戒めの真意に目を向け行う』

 本日は顕現後第6主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、シラ書[集会の書]15:11-20とマタイによる福音書5:21-24、27-30、33-37。山上の説教の中の3つの戒め「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「誓ってはならない」の真意をつかみ、その本来の意味に目を向けて、イエス様の望む義を行わせていただけるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所から思い浮かぶ絵画、フラ・アンジェリコの「最後の審判」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は顕現後第6主日、今年は来週の水曜日、2月22日が大斎始日(灰の水曜日)です。メールでもお知らせしましたが、「灰の水曜日の礼拝」が10時半から前橋の教会で行われます。礼拝の中でしゅろの十字架を灰にしたものを額に塗り、悔い改めのしるしとします。新町の皆さんも、よろしければ、この礼拝に参列いただけたら幸いです。
 本日の福音書は山上の説教の先主日の続きで、マタイによる福音書5:21節以下の3つの部分がとられています。聖書協会共同訳聖書の小見出しは、それぞれ「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「誓ってはならない」です。旧約の古い戒めに対するイエス様による新しい戒めが示されています。また、旧約聖書は続編、シラ書15章からで、主の知恵と主を畏れることを賛美し、ことに15節では、「欲するならば」戒めを守り忠実に果たすことができると、福音書と関係している箇所がとられています。

 福音書を中心にお話しします。今お読みました個所は、これを聞いた当時のユダヤの人々には驚くべき教えだったと思います。
 まず最初に、21-22節について、イエス様は、こうおっしゃいました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。」と。
 旧約聖書出エジプト記20章13節に「殺してはならない」と記されています。これは、モーセ十戒の中の第6番目の戒めです。また、民数記35章30節、31節には、「人を殺した者については、複数の証人の証言に基づいてその殺害者を処刑しなければならない。・・・その者は必ず死ななければならない。」と記されています。人を殺した者は、必ず死刑という裁きを受けます。「目には目を、歯には歯を」「命には、命をもって償う」というのが、その当時のユダヤの人々にとっては当たり前のことでした。
 ところが、イエス様は、「しかし、私は言っておく」と前置きして、「きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。」と言われました。「ゲヘナ」とはエルサレム南にある谷で、比喩的に死後罪人が罰を受ける、「地獄」の名で呼ばれる場所です。イエス様は、兄弟に腹を立てるだけで、「馬鹿」と言うだけで、「愚か者」と言うだけで、裁きを受ける、死に値いすると言われるのであります。
 この教えの裏には、イエス様の真意、本当の思いが隠されています。それはこんなことだと考えます。
 昔の人々は「殺すな」というモーセの戒めに「人を殺した者は裁きを受ける」という解釈を付け加えました。彼らにとって、「殺すな」という戒めに抵触する犯罪行為は、凶器を使った殺人です。このように戒めを狭く限定しておけば、「殺さなければいい」と、自分を正しい者として保つことが容易になります。これに対して、イエス様は「殺すな」という戒めを通して、人の命に無関心ではいられない神様の呼びかけを聞き取ります。神様が慈しむのは、生物学的な生命だけではなく、それも含めた人の命全体(人格)です。このような慈しみを知るイエス様は、「きょうだいに腹を立てる」ことも、凶器を使った殺人と同じように、人の命(人格)を犯す行為だと考えます。戒めの本来の輝きをイエス様は取り戻そうとして、祭壇に供え物を捧げる前にきょうだいと和解するよう命じておられます。イエス様のいう殺人とは「腹を立てること」、つまり相手の人格を犯すことであり、「腹を立ててはいけない」とイエス様は新しい戒めを示したのです。

 次に、27-29節です。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれない方がましである。」
とあります。
「『姦淫するな』と命じられている」。これもまた出エジプト記20章14節や申命記5章18節に記されている「姦淫してはならない」というモーセ十戒の7番目の戒めです。
 「姦淫」とは、ギリシャ語では結婚している者が他の異性と関係を持つことを言います。もちろん、未婚者の性行為や強姦などの淫行も禁じられています。レビ記20章10節には、「人が他の人の妻と姦淫するなら、すなわち隣人の妻と姦淫するなら、姦淫した男も女も必ず死ななければならない。」と定められています。
 ところが、イエス様は、これに対しても、「しかし、私は言っておく」と前置きした上で、さらに厳しさを重ね、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。」と教えられたのです。このイエス様の裁きは、その当時でも、現在でも、極めて厳しいものであります。
 なぜ、イエス様は、このような不可能と思われるような教えを、私たちに求めておられるのでしょうか? その真意は何でしょうか?
 それはこのように考えられるのではないでしょうか?
 戒めが自分の正しさを誇示するための手段であれば、戒めの理解をできるだけ狭めておこうと考えます。狭ければ、戒めに触れた行為を「自分はしていない、むしろ守っている」と安心し、胸を張ることができるでしょう。「姦淫するな」と聞けば、実際に行為となって具体化された姦淫(つまり妻以外の異性と関係を持つこと)を考え「それは行っていない」と考えて安心しようとします。しかし、イエス様は「私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」と具体的な行為の次元から、心の次元へと視点を移し、姦淫への思いが心にあるとき、すでに罪を犯していると説きます。イエス様は人の思い(心のあり方)を重視されるのです。これほどに厳しい見方をするのは、「姦淫」は夫婦という人間関係を破壊するものだからです。イエス様の真意は人間関係の破壊を防ぐことであり、その基は他人の命(人格)を大事にすることであり、それこそ神様の求める道だからと考えます。

 さらに、33-34節にこうあります。
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に果たせ』と言われている。しかし、私は言っておく。一切誓ってはならない。」と。
 「偽りの誓い」については、レビ記19章12節に「私の名によって偽りの誓いをしてはならない。あなたの神の名を汚してはならない。」とありますが、イエス様は更に踏み込んで、「一切誓ってはならない。(直訳は「まったく誓うな」)」と命じておられます。ここの真意、本当の意味は何でしょうか?
  互いの間に完全な信頼関係があるなら、誓いは必要ではありません。「誓う」ということは、人間関係に何らかの亀裂が生じているしるしです。しかし、イエス様と共に到来する神の国に属した者は、その支配を受け、既に真実な者になっているので、誓いは必要とせず、ただ『然り、然り』『否、否』とだけ言う、つまり偽りの言葉は語らないというのです。イエス様によって真実の命を生きる者は「偽る」ということがないから、「誓い」は必要ないということです。イエス様が「まったく誓うな」と命じる真意は、誓う必要のない現実がイエス様と共に来ようとしているからと言えます。

 本日の福音書箇所から思い浮かぶ絵画があります。それはフラ・アンジェリコの「最後の審判」です。

 この絵はフィレンツェのサン・マルコ美術館(かつての修道院)にあります。玉座のキリストが最後の審判のために到来し、その両脇には使徒たちや天使たちがいます。イエス様の足もとにあたる部分には、(向かって)左側に審判においてよい生き方を認められ、神の国に迎え入れられる人々、右側の暗い部分には、罪をとがめられる人々の光景が描かれています。
 先ほどの福音書の「裁きを受ける。……ゲヘナの火に投げ込まれる」(22節、23節)という裁きの様相は、この絵の(向かって)右下の暗い情景が表現しています。それは、マタイ25章41-46節の、すべての民族を裁くたとえに通じます。神様が求めることを果たさなかった人々に対して、「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちのために用意してある永遠の火に入れ」(41節)と告げられるところです。恐ろしい情景ですが、ここには、神様に従う人、イエス様に従う人となるための生き方についての教えが含まれています。その直前の40節に「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」とあるとおりです。それは、隣人愛であり、神様が求める最も重要な戒めです(マタイ22:34-40)。イエス様は、律法学者たちの律法に対する表面的な解釈を突き崩し、律法の根底にある、より深い、真の神様の意志を明らかにします。そのような神様の御心の体現者としてのキリストを、最後の審判のこの図の中央にいる玉座のうちに見ることができます。

 本日の福音書箇所に戻ります。この箇所ではイエス様が3つの戒め、「腹を立ててはならない」、「姦淫してはならない」、「誓ってはならない」について語っています。どのような背景でイエス様はこれらのことをお話しになったのでしょうか? それは本日の福音書箇所の直前を見ると分かります。20節です。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
 「あなたがた」とは直接的には弟子やイエス様についてきた群衆たちを指しますが、私たちとも言えます。「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさ」るイエス様の求める真実の義を私たちに示したのが、今日の箇所と言えます。
 「義」とは「正しさ」のことですが、聖書では「義」とは、神様との関係を大事にして生きる姿勢、つまり戒めに込められた神様の思いを聞き取り、その声に応じた行動を取ることを表します。たとえば、「殺すな」という戒めは、ただ凶器を用いた殺人だけではなく、あるべき人間関係を破壊するあらゆる行為を禁じているのです。イエス様が求めているのは、「戒め」の本来の意味に目を向けて生きることです。それは「戒め」の奥にある神様の愛を知ることです。
 イエス様によって罪を赦され、神の国に招き入れられた者は、感謝の内に新しい戒めを生きることができます。律法学者やファリサイ派の人々の義に優る「義」とは、神様の救いを受けて、神様の愛に応える者として行う行為であり、神様が行わせる正しさであります。

 皆さん、私たちは表に現れた事柄ではなく、そこに込められた真意をつかむことを望みます。そして、私たちは、イエス様によって罪を赦され、神の国に招き入れられた者です。イエス様の言葉や行動の真意(本当の思い)をつかみ、その本来の意味に目を向けて、イエス様の望む義(正しいこと)を神様に行わせていただけるよう、祈り求めて参りたいと思います。