聖霊降臨後第7主日『真のイエス様を見つめ信頼する』
本日は 聖霊降臨後第7主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
本日の聖書箇所は、エゼキエル書2:1-5 、詩編123、コリントの信徒への手紙二12:2-10及びマルコによる福音書 6:1-13。説教では、預言者であり救い主であるイエス様の真の姿を見つめ、すべて主に信頼し委ねて、御心にかなう生き方ができるよう祈り求めました。
本日のテーマから思い浮かぶ、ボンヘッファーの詩による新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」も活用しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日の福音書はマルコによる福音書の6:1-13で、聖書協会共同訳聖書では「ナザレで受け入れられない」と「12人を派遣する」という表題がついています。ここは安息日に故郷の会堂で教えたイエス様に対して人々がつまずいた箇所とこれまでイエス様のなさることを見てきた弟子たちが派遣される箇所です。今回は、前者の箇所6:1-6を中心に思い巡らします。
先週の福音書は、長血の女性がイエス様によって癒やされたり会堂長ヤイロの娘が生き返るという奇跡の箇所でした。そこでは「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)というように、「信じること(信仰)」が大きなテーマでした。本日の箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでも「信じる」ということが同様に重要であると思います。
本日の箇所の前半、6:1-6について解説を加えて振り返ります。
イエス様は故郷であるガリラヤのナザレに弟子たちとともにお帰りになりました。そして、イエス様が安息日に会堂で教えられると、故郷の人々は驚いて言いました。2節の後半からです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。」と。
イエス様の故郷の人びとは、イエス様とその身内のことをよく知っていました。ですから、イエス様が会堂で教えられ、それを聞いた人びとは、イエス様の口から出る言葉に驚いたのです。
そして「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。……」との外見的なこだわりから、故郷の人びとはイエス様につまずいたのです。
「この人は、大工ではないか。」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。ちなみに、この「マリアの息子で」という表現には、すでにヨセフが他界していたことを暗示するとともに、父親がいないという軽蔑の響きがあります。さらに、ここで「つまずく」と訳されたギリシャ語「スカンダリゾー」は名詞スカンダロン〈罠〉から派生した動詞形で、英語のスキャンダルの基になった言葉です。この箇所では人が常識に凝り固まっていると、人々は罠にはまりイエス様自身が「つまずきの石」に変わってしまうことを示しています。
ナザレの人々は、イエス様を表面的によく知っていたので、その見方を超えることができず、イエス様が、預言者として神様との特別なつながりの中で活動していることを理解できませんでした。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」(4節)だと言われるのです。
そして、わずかの病人を癒しただけで、その他の奇跡を行うことができず、イエス様は、故郷の人びとの不信仰に驚かれ、この地を去り、近くの村々を教えて回られました。
この箇所から、私たちがどうすることを、イエス様は求めておられるでしょうか?
先主日の箇所では、出血が12年間続いた女性やヤイロの12歳の娘が癒やされましたが、この二人に奇跡が起きたのは「信仰のゆえ」とマルコは記しています。ちなみに、「信仰」のギリシャ語は「ピスティス」ですが、この言葉を本田哲郎神父は「信頼して歩みを起こすこと」と訳しています。
本主日の箇所では、6節にありますように、イエス様は「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。「驚く」という出来事には「ひどいことに驚く」と「素晴らしいことに驚く」の二つの側面があります。それらの驚きがつまずきに変わるのは、「その出来事をなさった方は自分と同じ人間ではないか」というような自分のレベルに落として見ていることによるのではないでしょうか?
人々の驚き、それをイエス様の生い立ちなどで見るのではなく、イエス様の背後で働いておられる神様に目を向けられたら、人びとの驚きはつまずきではなく、別の動きになったことでしょう。
イエス様を外見で判断するのでなく、預言者、つまり神様の言葉を預かる方であり、私たちの救い主であるという真の姿を見つめ、すべて神様に信頼して委ねて歩むことを、イエス様は求めておられるのではないでしょうか?
そうはいってもなかなか難しいと思われるかもしれません。そのことの関連で、先ほど読んでいただいた使徒書、「コリントの信徒への手紙二」にも目を向けたいと思います。そこでは、パウロ自身の弱さが記されています。パウロは自分に「一つの棘(とげ)が与えられた」(12:7)と言っています。この棘が何かは明記されていませんが、一説には、パウロは目が悪かったとか、てんかんの持病があったとか言われるので、肉体的なことではないかと思われます。また一説には、パウロが負った心の傷ではないか、あるいは「うつ病」だったのではとも言われています。この棘は、「思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた」と言われる試練とも考えられます。そして、パウロは、その棘がなくなるように三度神様に願いますが、神様から「それが必要だ」と言われます。9節前半にこうあります。『ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。』と。それは、その棘があることによって、自分の限界、弱さを実感でき、福音宣教者として必要なものだからと言うのです。パウロというと、とても厳しく強いというイメージがありますが、それは言葉や行いという外見的なものであって、心の中は、普通の人と変わらない弱さを持っていました。そして、パウロは、9節後半以下で「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」「私は弱い時にこそ強いからです」と言っています。それはパウロがまったく主を信頼するという信仰を持っていたからこそ確信できたものと思います。そして、その棘があったから、求められても、あるいは必要があっても思うように動くことができず、そのために各教会の信徒宛に手紙を書いたとも考えられます。しかし、そのおかげで、新約聖書の多くの部分を占めるパウロの手紙が残り、今、私たちもそれを読むことができるのです。これこそが「神の恵み」だと思います。パウロがこのようなことができたのはどうしてでしょうか? それは「神が共におられた」からだと私は思うのです。
このことで思い浮かべる聖歌・讃美歌があります。それは、ボンヘッファーの詩による「善き力にわれ囲まれ」です。この歌詞はいろいろな曲が付いていますが私が一番いいと思うのは「新生讃美歌」の73番です。

この聖歌集はバプテスト教会が使っているものです。受付に置いた楽譜をご覧になりながら、この曲をお聞きください。ピアノと歌は西南学院中学・高等学校のトム望先生です(youtubeを聞く)。
https://www.youtube.com/watch?v=6AJ3EhMhWfQ
1 善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、
世の悩み共にわかち、新しい日を望もう。
過ぎた日々の悩み重く なお、のしかかる時も、
さわぎ立つ心しずめ、み旨に従いゆく
善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう
夜も朝もいつも神は われらと共にいます
2 たとい主から差し出される 杯は苦くても、
恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう
輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。
望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。
善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう
夜も朝もいつも神は われらと共にいます。
ボンヘッファーはヒットラーの暗殺計画に荷担したということで逮捕され、1945年4月9日に絞首刑にされましたが、この詩はその前年の12月に獄中で書かれ、婚約者に宛てた手紙に同封されていました。いつ死刑になるかもしれない状況でも希望はある、それは善き力に囲まれ守られているから、「いつも神は共におられる」からです。ボンヘッファーは試練の中にあっても御旨に従い、すべてを主に委ねたのです。
皆さん、私たちにも試練や「棘」が与えられることがあります。しかし、それには必ず何か神様の意図があるのです。試練の時も、いや試練の時こそ、神様と強い絆を保ち、まったく主を信頼することが重要です。そして、預言者であり、私たちの救い主であるイエス様の真の姿を見つめ、主に信頼しすべてを委ねて、御心にかなう生き方ができるよう日々祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン