マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「ヘンリ・ナウエンの祈り」に思う』

 10月からFEBCのプログラムが秋冬仕様に変わりました。4月から続いた平野克己牧師の「祈りのともしび―ひとつごころで御前に立つ」も9月25日(水)が最終回でした。今回は「祈ることをやめません―ヘンリ・ナウエンの祈り」が取り上げられていました。以下のURLで聞くことができます。
https://www.febcjp.com/2024/09/25/

 この祈りを下に示します。 
『愛する主よ、心がひどく動揺し、騒いでいても、そこには慰められる想いもあります。たぶんあなたは、私が感じたり、味わったり、理解もできない仕方で、私の内で働いておられるのでしょう。あなたに集中できず、心が落ち着かず、乱れています。あなたがここにおられず、見捨てられたように感じています。
 でも信仰によって、あなたにすがりつきます。あなたの聖霊は私の想いや心よりさらに深く、さらに奥まで達しておられ、またその働きの始めは、気づかないくらい密やかであると信じます。
 ですから主よ、諦めもしません。祈ることも止めないと約束します。たとえ、すべてが無駄で、無意味で、時間と労力の浪費かのように見えても。あなたの愛を感じられないときも、あなたを愛していること、そして絶望感に襲われがちでも、あなたに希望を置いていることを知ってください。
 こうしたことが、私よりはるかに苦しんでいる世界の幾百万の人々と連帯する経験となり、私にとって、あなたと共なる、またあなたのための、小さな死でありますように。』                 (訳=太田和功一)

 この祈りは、元々はナウエンによる唯一の祈祷集「主の憐れみを叫び求めて~ジェネシー修道院からの祈り~」の5月10日の祈りです。ここには、慈しみ深い愛する主イエス様へ絶えず祈り続けるという、心の叫びが記されています。

 この本はナウエンがエール大学で教鞭を執っていた時、ニューヨーク州北部のジェネシーにあるトラピスト修道院で1979年2月から7ヶ月過ごした折に書き溜めた祈りの日記です。彼はこの祈りを、主への個人的な手紙として記しました。
 表題にある「主の憐れみを叫び求めて」から、マルコ福音書10:46-48の「バルティマイの祈り」を想起します。
『一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。』
 癒やしの奇跡の噂を聞いた盲人バルティマイが、必死の思いで主イエス様に「憐れんでください」と叫び求めました。そして、バルティマイの信仰がイエス様による癒やしを生みました。
 なお、聖書における「憐れみ」は日本語の「かわいそうに」というニュアンスはありません。
 この本の表題「主の憐れみを叫び求めて」の原文は「A Cry for Mercy」です。
英和辞典で、Mercyの意味として「あわれみ」と「情け」があり、これら二つはほぼ同じ意味と解釈します。「憐れみ」はギリシャ語で「エレオス」と言いますが、ギリシャ語辞典でその意味は「誰か他の人が蒙っている何らかの害悪を目の前にして生じる心情、およびその心情から生まれる行為」です。イエス様が「憐れむ」ときは「スプランクニゾマイ」と言い、それは「腸(はらわた)痛む」とも訳すべき言葉です。「憐れみ」は自分のお腹を痛めるような共感の心情とそれから生まれる行為を意味します。

 私たちは毎主日聖餐式で「主よ、憐れみをお与えください(キリエ、エレイソン)。キリストよ、憐れみをお与えください(キリステ、エレイソン)。」と唱えています。それは主イエス様の「憐れみ」という腸(はらわた)痛む心情と癒やしの行為を必死に叫び求めているのです。
 バルティマイやナウエンのように祈ることをやめず、主の憐れみを求め続けたいと願います。