マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第2主日聖餐式 『霊によって新たに生まれる』

 本日は大斎節第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、創世記創世記12:1-8とヨハネによる福音書3:1-17。イエス様とニコデモの対話の概要を知り、霊の働きに身を委ね、新たに生まれ、永遠の命を得ることができるよう祈り求めました。
 大斎節中の黙想として読んでいる「イエスの聖テレサと共に祈る」(聖母文庫)の「まなざしの祈り」の文章も引用しました。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第2主日です。
 大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。
 大斎節は信仰の業の励行(励むこと)に留意します。主イエス様の生涯とその苦難に思いを馳せながら、自らを省みながら、深い祈りの時を持ちます。節制によって手許に残ったお金を特別な献金(大斎克己献金)として捧げ、教会や、その他助けの必要な人々のために用います。また、黙想や修養のために時間を費やし、それを主に献げるという意味もあります。私は大斎節中の黙想としてこの本を読んでいます。「イエスの聖テレサと共に祈る」(聖母文庫)です。

 この本は、アビラの聖テレジアの著作から、祈りについて解説しています。大斎に入ってから、この本を少しずつ祈りながら読み進めています。
  
 本日の聖書日課についてです。先ほどお読みしました福音書箇所は、ヨハネによる福音書の3章からで、イエス様とニコデモとの対話の箇所です。3節の「新たに生まれる」、5節の「水と霊とから生まれる」との言葉によりイエス様は洗礼に言及しています。さらにイエス様は15節で「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」こと、17節で「御子によって世が救われる」ことを語ります。旧約聖書もそれに対応して創世記の12章からで、アブラハムによって地上の氏族が救われ祝福されること、またそのことへのアブラハムの固い信仰(4節a)を記した箇所が選ばれています。

 この後は、福音書のイエス様とニコデモとの対話の場面を見てまいりたいと思います。ニコデモは弟子ではなく、ファリサイ派ユダヤ人たちの指導者、新共同訳では「議員」と訳され(元々の意味は「指導する者」)、イスラエル社会のエリートということができる人物です。ニコデモはヨハネによる福音書では、このあと7章と19章の2回登場します。7章でのニコデモは、ファリサイ派の同僚がイエス様を調べもせずに否定したとき、「本人から事情を聞かずに判決を下すのは間違っている」と戒め、19章ではイエス様の埋葬のために貴重な香料を大量に持参しています。そのような人物です。

 今日の福音書箇所の3章に戻ります。2節です。 
 ニコデモは、ある夜、イエス様のところへ来ました。夜来たとありますから、人目をはばかって、こっそり来たのかもしれません。そして、イエス様に言いました。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡)を、だれも行うことはできないからです。」
 こう語っているのはお世辞ではなく、イエス様への尊敬心の現れであり、イエス様と親しく語り合いたいと願っているのだろう、と思います。イエス様はニコデモにこう言いました。3節です。
「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 「よくよく言っておく」は、特にヨハネ福音書に頻繁に出てくる言い回しですが、直訳では「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」です。大切な宣言をされる時、神の言(ことば)を告げる時、「アーメン」と主イエス様は仰るのです。私たちも祈りの後、アーメンと言います。それは「その通り。全くそうです」という意味です。また、「神の国」とは、天の国、永遠の命と言い換えられます。
 イエス様の言葉に、ニコデモは、驚いて言いました。4節です。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」
 ここで、イエス様とニコデモとの間にあるずれが明らかになりました。
  イエス様が言った「新たに生まれなければ」の「新たに」と訳されたギリシア語は「アノーセン」であり、ニコデモが言った「もう一度母の胎に入って」の「もう一度」と訳されているのは「デウテロン」という別の語でした。「アノーセン」には、「もう一度、新たに」の意味のほかに、「上から」という意味がありますが、ニコデモは「もう一度」の意味と取りました。「アノーセン」が示す「上から」は文字通り空間的に「上から」を意味しますが、「神から、天から」の意味にもなります。
 ニコデモは、母親のお腹から生まれる胎児のことを思っています。生物的な誕生、目に見えて肉体を持って生まれる姿を頭に描いています。しかし、イエス様は、まったく違う次元のことを言っておられるのです。
 イエス様がニコデモに言った「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」の「生まれなければ」は受動態です。「新たに生まれ」るとは「上から(神から)生まれさせられる」ということです。新たな生は神様から一方的に与えられるものです。

 さらにイエス様はお答えになりました。5節・6節です。
「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
「水と霊とから生まれなければ」と言われた「霊」という言葉は、ヘブライ語では、「ルーアッハ」という言葉です。それは、ギリシャ語で、「プネウマ」という言葉に翻訳されています。「ルーアッハ」も「プネウマ」も両方とも、その元の意味は「風の動き」「風」という意味で、「霊」という意味にも使われています。鼻や口から出る風という意味から「息」とも訳されています。霊とは、「神様から出る目に見えない力」というような意味を持っています。昔から、神様から人に吹きかけられる息、それが「霊」とか「聖霊」と同じ意味に使われています。
 イエス様は、8節で「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言い、「プネウマ」という言葉が、「風」と「霊」という両方の意味を持っていることから、一種の語呂合わせをしておられるのかもしれません。
 ニコデモは、イエス様から「新たに(上から)生まれなければ」と言われると、肉体的に生まれることしか思いあたりませんでした。これに対して、イエス様は、神様との関係の中で、神様から出る霊によって生まれなければ、神の国に入ること、永遠の命を得ることはできないと言われるのです。

 そして、14節から15節にこうあります。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
 「人の子」とはイエス様のことです。ここでは民数記21章で、モーセが神様の指示に従って造った炎の蛇を竿の先に掛けることで民が命を得た故事を引用し、イエス様が十字架に上げられることによって信じる者が永遠の命を得ることを示しています。
 さらに16節です。「聖書の中の聖書」と呼ばれる箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神様は、独り子であるイエス様をこの世に送り十字架に上げるほど、この世を、そして私たちを愛しておられるのです。私たちが求められているのは神の御子であるイエス様を信じることであり、そうする人は永遠の命を得るのであります。
この「世」とは、単に人の住む領域ではなく、滅びに向かい、裁きを免れない人類のことです。神様は私たち人類を愛するがゆえに、独り子を与え、御子を世に遣わされたのです。
   
 まさに「神は愛」であります。十字架において、神様は独り子の死を惜しまぬほどに私たちを愛し慈しむ方であることが分かります。人知を超えた神様の愛を知るためには、霊の働きに身を委ねる必要があります。人間の理解を超えた霊の働きを知って生きる者となることが求められています。十字架を仰ぎ見るとき、私たちは神様の無限の愛を知ることができます。そのとき、人は新たに生まれ、神様の思いの中で永遠の命を生きる者へと変えられていくのであります。

 さらにいえば、イエス様も私たちを見てくださいます。このことを私は、毎朝の聖務日課やロザリオの祈りを通して感じています。
 説教の冒頭で紹介した「イエスの聖テレサと共に祈る」にこうあります。「まなざしの祈り」という祈りについてです。
『キリストが私たちを見ておられることの気づきを大切にしましょう。キリストは私たち一人一人を見ています。いつくしみ深く見ています。このキリストの優しいまなざしに気づきましょう。キリストから大切な人として見られていることを意識しましょう。キリストは何も要求しません。ただ、私たちがご自分に目を向けることを待っておられるのす。この互いに見つめ合う中に、愛の関係が生まれてきます。この関係が深まってくると、祈りの生活は成長するでしょう。ここで、御言葉を聞くという、もう一つの祈りの姿勢も生まれてきます。テレサは聖書の中の「サマリアの女」や「やもめの献金」等の物語を特に好んでいました。このようなイエスの見方を深く感じ、黙想していました。このイエスの見方と視線を、少し沈黙のうちに眺めてみましょう。このように、生きている神と出会うこと、これが本当の祈りです。』
 ここでは、イエス様が私たちを見ておられることに気づき、私たちもイエス様を見つめることが勧められています。お互いが見つめ合う、これが「まなざしの祈り」です。さらに「御言葉を聞く」ことも推奨され、これらにより「生きている神と出会うことができる」というのです。

 私は原則として毎朝10時半から、この聖堂で「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を捧げています。その中で聖書日課も読んでいます。受付にそこで使用しているロザリオや小冊子等を置きました。

 もし、よろしければ大斎の期間、一緒に祈りの時を持ちませんか?  

  皆さん、ヨハネ福音書の最後のところで、ニコデモは「新たに生まれ」た自分がそこに立っているのに気づきます。思いのままに吹く風のような力(霊の働き)が、彼の生き方を変えました。私たちもニコデモのように、霊の働きに身を委ね、神様の愛に包まれ新たに生まれ、永遠の命を得ることができるよう、祈り求めたいと思います。