マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 聖餐式 『真理を導く聖霊』

 本日は三位一体主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書6:1-8 とヨハネによる福音書16:5-15。三位一体の神が私たちに真理を導かせるために聖霊を送られていることを知り、真理の霊である聖霊を祈り求めました。聖ヨハネ修士会の「聖教大意 信仰編」の中にある、三位一体を太陽と光と熱にたとえたことも紹介しました。

   真理を導く聖霊

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先週の主日は「聖霊降臨日」(ペンテコステ)でした。本日は「聖霊降臨後第1主日」であると同時に「三位一体主日」と言われる主日です。
 本日の福音書ヨハネによる福音書16章からで、12節から15節だけにすることもできたのですが、聖霊の働きについて知るにはその前の5節からにした方がより理解できると考え、長い方でお読みしました。
 この箇所はヨハネ13章から始まったイエス様の告別説教において、弟子たちに語った話の一つです。その主な内容は、イエス様が世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。その中で聖霊を送る約束が4箇所ありますが、今日の箇所はその最後の部分です。この約束はイエス様の復活後に実現します。
 5-6節をご覧ください。
「しかし、今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。」
 そうイエス様は弟子たちに語られました。弟子たちの心は、主イエス様との別れの悲しみ、自分たちが迫害を受けるかもしれないという恐れ、不安で満ちています。愛する主イエス様との別れ、自分に迫る迫害。これは具体的で現実的な恐れ・不安・悲しみをもたらします。この恐れ・不安・悲しみに対して、イエス様はどう弟子たちを支え、慰め、導くと言われるのでしょうか?
 イエス様は7節でこう言われました。
「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
 主イエス様が弟子たちにこの時与えられた約束は、「弁護者を送る」ということでした。ここで「弁護者」と訳されたギリシャ語は「パラクレートス」ですが、この語は「パラ〈わきに〉」と「カレオー〈呼ぶ〉」による合成動詞「パラカレオー〈呼び寄せる・慰める・励ます〉」から派生した名詞で、「誰かを救助するために呼び出された者」を意味します。「弁護者(パラクレートス)」は口語訳では「助け主」と訳されていましたが、これは聖霊のことです。この時、弟子たちはまだこれを知りませんでした。ですから、弁護者、助け主、聖霊が来ると約束されても、弟子たちは少しも慰められず、励まされることもなかったのです。
 
 しかし、イエス様が十字架に架かられた後、復活し、昇天され、聖霊が送られました。弟子たちはそのことを実際に経験して、聖霊が送られるということがどんなことなのか、どれほど力あることなのかを知りました。主イエス様が「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。」と言われたのは「本当のことだった」と、その時、彼らは知ったのです。

 では、主イエス様が去り、聖霊が与えられることによって得られるものは何でしょうか? ここでは、三つのことが挙げられています。
 8節に「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。」とあります。
 第一に、罪について世の誤りが明らかにされます。罪について、世はどう考えているかといえば、してはいけないと定められていること、その代表的なものが十戒であり律法ですが、これをしてしまうことが罪だと考えています。しかし、本当の罪は「的外れ」、神様の方を向かないことです。神様から離れていること、これが根本的な罪であります。
 次に、義についてです。義については、人々は自分が善い人間になって、義しい生き方をすることだと世は思っています。しかし、そうではなくて、イエス様が「父のもとに行き、あなたがたがもはや私を見なくなること」(10節)、つまり、イエス様が十字架に架かり、復活されて天に昇る、ここに義がある、と言われるのです。この義とは、神の義、神の義しさです。神様が、愛する独り子を十字架に架けて、その独り子を死から復活させ、天の御国への道を開いてくださった、ここに義があります。この神の義によって、私たちの罪は赦され、神の子とされ、永遠の命へと招かれるのです。
  第三に、裁きについてです。裁きといえば「この世の支配者が人々を裁く」と世は思っています。しかし、イエス様は「そうではない、この世の支配者が裁かれる」と言うのです。イエス様は、この世の支配者によって十字架につけられました。この世の支配者によって裁かれたのです。しかし、本当の裁きとは、主イエス様を十字架につけたこの世の支配者が、神様によって裁かれることだというのです。イエス様は、これらのことを聖霊が明らかにすると言われたのです。

  主イエス様は続けてこう言われました。12~13節前半です。
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。」
 イエス様は、罪と義と裁きについて、御自身の十字架と結びつけてでなければ何も分からないし、そのことを真理の霊である聖霊は明らかに教えてくれると言われました。真理の霊が来て、初めてイエス様の言っていることがどういうことなのかが、後になって分かるとイエス様はおっしゃっています。その時は分からないけれど、後になってみて、「あの時のことはこうだった」と、真理の霊に照らされて初めて分かるというのです。聖霊が弟子たちに教えてくれることは、罪と義と裁きについてだけではありません。「あらゆる真理に導いてくれる」と言われているとおりです。この真理とは、主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みが明らかにされるすべての真理ということだと考えられます。主イエス様の十字架と復活について教えられることによって、私たちは自分の罪の姿(つまり、神から離れている姿)がいよいよ明らかにされ、悔い改めないではいられない(つまり、神に立ち帰る)者とされるのであります。
 主イエス様は真理の霊である聖霊について、こう語りました。13節後半~14節です。
「その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
 「その方」とは聖霊のことです。聖霊は、イエス様と無関係に新しいことを私たちに教えるのではありません。イエス様が語られたことを、本当のことだと分からせてくださるのが、真理の霊である聖霊です。聖霊は、イエス様が栄光を受けるために働かれるのです。
 聖霊を受けた弟子たちは、ここから新たな歩みが始まります。「イエス様が誰であるのか」を人々に伝える使命は、ここから始まります。
 15節にこうあります。
「父が持っておられるものはすべて、私のものである。だから、私は、『その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 父なる神様のものはすべて子なるイエス様のものです。そして御子イエス様は、父なる神様から命じられたままを語り、「その方」と表記されている聖霊はイエス様の言葉を語ります。父と子と聖霊という3つの位格(ペルソナ)は一体です。父なる神様と子なるイエス様と聖霊、その三位一体の神が、この世の弟子たち、そして私たちを、真理に導くために、一体となって働いておられるのです。

 これまで、三位一体のことを説明するために、いろいろなたとえが用いられて来ました。よく用いられているのは、太陽と光と熱のたとえです。このことについては、聖ヨハネ修士会の「聖教大意 信仰編」の中にあります。

 この本は、1938年と39年に発行されたものを1994年に複刻したものです。こうあります(P.25)。
『太陽の実体は高い上空にありますが、それから出る光線は遠く下界に降って来まして、あらゆる物を照らします。そして、その光を受けたものは必ず熱を受けるのであります。父なる神様は高い霊界におられるのですが、光であられる子なる神様は御父から生まれ出で、天から降り、地上に臨み全ての人を照らされる。その光を受けた者は熱、即ち聖霊を受け、心霊に命が与えられる。火球は父なる神、光は子なる神、熱は聖霊なる神、と説明するのであります。そしてこの三つは、別々に引き離すことができず、三つが一つになって太陽をなしているように、三位が一つになって神様の御本体をなしているのであります。』
 ここでは太陽における火球と光と熱の三つの位格が一体であることから、三位一体の神について説明しています。

 皆さん、今日は、「三位一体主日」です。父なる神様と子なるイエス様と聖霊は、私たちを真理に導くために、一体となって働いておられます。そして、聖霊はいつも私たちに注がれているのです。聖霊は太陽の光のように私たち一人一人に与えられ、すべての物に注がれているのです。これからも聖霊が私たち一人一人をあらゆる真理に導いてくださいますよう、祈り求めたいと思います。