マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活日聖餐式 「空の墓」と復活されたイエス様

 本日はイースター(復活日)です。前橋の教会で主の復活を記念する聖餐式を捧げました。
 聖書箇所はコロサイの信徒への手紙3:1-4とルカによる福音書24:1-10。説教では、「空の墓」と復活されたイエス様について知り、イエス様は私たちの「空っぽ」の心を満たし、いつも共にいてくださることを心に留め、神様から離れている状態からイエス様とつながって生きることができるよう祈り求めました。「愛する子供たちへ マザー・テレサの遺言」の中にある「空っぽ」の文章も活用しました。

         「空の墓」と復活されたイエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 イースター、おめでとうございます。主イエス様のご復活を、皆様と祝い、礼拝後には、新築の会館で交わりの時を持つことのできる恵みに感謝します。
 イースター(復活日)はクリスマスと並ぶキリスト教の2大祝日です。イエス様の復活こそがキリスト教の始まりの出来事であります。また、イースターは主イエスをキリストと信じる信仰の命、新しい霊の命を神様から与えられたことに感謝し、その喜びを分かち合う日でもあります。
 ちなみに英語の「Easter」(イースター)は、ゲルマンの神話に出てくる春の女神「Eostre」(エオストレ)に由来すると言われています。イエス様の復活と、春をお祝いするお祭りを象徴する女神のイメージが結びつき、「Easter」(イースター)と呼ばれるようになったと考えられています。さらに言えば、春の女神は太陽と共にやってくるため、太陽が昇る東を「East」(イースト)と呼ぶようになったそうです。

 さて、本日の聖書についてです。聖書日課C年の復活日の福音書は、ルカのいわゆる「空の墓」の箇所が取り上げられています。また、使徒書はコロサイの信徒への手紙3章で冒頭から「あなたがたはキリストと共に復活させられた」(一節)という表現が見られ、キリストにある全く新しい生き方について述べています。 
 本日の聖書を通して神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 福音書を中心に考えます。本日の福音書箇所はルカによる福音書24:1-10で、
エス様が復活された日の出来事が述べられています。この箇所を振り返ってみます。
『イエス様が十字架で亡くなった3日後の日曜日、週の初めの日の明け方早く、女性たちは、準備しておいた香料を持ってイエス様の墓に向かいました。墓に行ってみると、墓の入口をふさいでいた大きな石が横穴の入口のわきに転がしてありました。中に入って、イエス様の遺体を安置した所へ近づいたのですが、そこにあったはずのイエス様の遺体が見つかりません。墓は「空っぽ」だったのです。女性たちは驚くと共に、どうしていいのか途方に暮れました。すると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ、女性たちは、恐くなって、地に顔を伏せると、その二人は言いました。5節の途中からです。
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」
 そう言われて、弟子たちが聞き、また女性たちも聞いていた、かつてイエス様が語られた言葉を思い出しました。
 そこで、女性たちは、墓から急いで帰り、11人の弟子たちやほかの人たちがいる所に行って、墓の様子についてみんなに一部始終を知らせました。
 この女性たちとは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の女性たちでした。女性たちはこれらのことを弟子たちに話しました。』

 ここまでが本日の箇所ですが、この後についても少し言及した方が理解が深まると思いますので、お話しします。
『女性たちからこの話を聞いても、弟子たちは、馬鹿げたことと思って、すぐには信用しませんでした。しかし、ペトロは、立ち上がって墓へ走り、墓のある洞窟を身をかがめて中をのぞくと、イエス様を葬った場所には、イエス様を包んだ亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰りました。』

 これが、日曜日の朝に起こった出来事です。ルカが伝えるイエス様の復活の出来事です。日曜日の朝のこの状況では、確かに葬ったはずの墓が「空っぽ」になっていたこと、女性たちや弟子たちもこの事実をはっきり見たのですが、その直後には、イエス様の復活を信じることができなかったのです。
 ところが、その後、復活したイエス様が、たびたび弟子たちに現れたことから、イエス様のご復活が信じられるようになっていきました。これが「主イエス復活の出来事」であり、イエス様が死んでよみがえられたという、奇跡の中の奇跡として伝えられてきたものです。

 このことから、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 
 主イエス・キリストの復活。これは教会が誕生することとなった出来事です。これがなければ、キリスト教は生まれなかったと言われます。主イエス様が十字架におかかりになった時、イエス様を捨てて逃げてしまった弟子たちには、主イエス様を救い主・メシアとして宣べ伝えていく力も勇気も根拠もありませんでした。弟子の一人一人は、イエス様というお方と出会い、共に旅をして過ごした日々を懐かしく思い出すことはあったとしても、それは弟子たちの思い出の一つに過ぎなかったことでしょう。しかし、主イエス様は復活されたことにより、思い出の中の人ではなくなったのです。復活されたイエス様は、弟子たちの思い出の中に生きる方ではなく、どんな時にも共におられ、生きて働く神の御子であることを弟子たちに示されたのです。
 そしてそれは、イエス様の弟子として歩む私たちにも、イエス様がいつも共にいてくださるということです。復活されたイエス様は、私たちの心の中に、私たちの生活の中に、共にいてくださるのです。 

 ところで、イエス様の復活は、今、朗読しましたように、墓が「空っぽ」だったというところから始まりました。この意味することは何でしょうか?
 「空っぽ」という言葉から思い浮かべる文章があります。それはこの本「愛する子供たちへ マザー・テレサの遺言」の中にある「空っぽ」という文章(P.48)です。

f:id:markoji:20220417181833j:plain

こうあります。
『神は、いっぱいのものを満たすことができません。
 神は、空っぽのものだけを満たすことができるのです。
 本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。
 イエスの呼びかけに「はい」と答えることは空っぽであること、あるいは空っ ぽになることの始まりです。
 与えるためにどれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なので す。
 ・・・(中略)・・・
 自我から目を離し、あなたが何も持っていないことを喜びなさい。
 あなたが何者でもないことを そして何もできないことを喜びなさい。』

 心が「空っぽ」であることにより、そこを神様が満たしてくださり、イエス様の恵みが豊かに満ち溢れるのです。私たちにとっては「空の墓」も恵みなのではないでしょうか? 心が「空っぽ」であるなら、そこにイエス様が復活してくださるでしょう。苦しかったり悲しかったり、つらくてどうしようもないこともあるでしょうが、信仰を持って心を「空っぽ」にした時に、イエス様はそこに恵みをもって復活してくださるのです。
 本日のイエス様の復活の箇所から神様が私たちに伝えておられるのは、このことではないでしょうか?

 この世界の秘密、人生の秘密の扉が最初に開いた所、それがこの「空の墓」です。イエス様が墓の中に既にいないということ、それはイエス様が死の中にはもういないということです。そのことは、イエス様は生きているということを示しています。イエス様はいつも私たちと共にいて、「空っぽ」の心を満たしてくださるのです。苦しみや悲しみを経験する時に、「神様が共にいてくださる、主イエス様が共にいてくださる」と信じることのできる信仰は、私たちにいつも生きる力を与えてくれる、神様からの恵みに満ちた賜物であります。

 皆さん、私たちは毎週、日曜日、主日に礼拝をささげています。それはイエス様が復活された日を記念しているのです。主イエス・キリストが復活された日、これを主日と言います。この日に私たちは共に集い、聖書を読み御言葉に思いを巡らし、ご聖体をいただき、感謝と賛美を捧げています。私たちはこの礼拝の中でイエス様にお会いし、「私はいつもあなたと共にいる」という宣言を聞いています。私たちはそのことをいつも心に留め、神様がイエス様を死から復活させられたように、私たちも神様から離れている罪の死の状態からイエス様とつながって生きるという永遠の命によみがえらせてくださいますよう、祈り求めて参りたいと思います。