マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節前主日(特定29)聖餐式 『真理であるイエス様の声を聞く』

 本日は降臨節主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。久しぶりに、聖書日課の旧約・使徒書・福音書を全部読みました。ダニエル書7:9-14・黙示録1:1-8・ヨハネによる福音書18:31-37です。説教では、イエス様は神の国の王であり、その王が真理を証しするためにこの世に来たことを理解し、真理であるイエス様のものであり、イエス様の声に聞く者であったか自己を見つめ、新しい年もそうできるよう祈りました。本日の福音書の舞台のピラトの官邸の跡地の画像も紹介しました。

   『真理であるイエス様の声を聞く』

<説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降臨節主日です。降臨節主日は、教会暦で一年の最後の主日にあたります。「王であるキリスト」の日とも「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復」とも言われる日です。本日の特祷にその内容が入っていました。そして来週は「降臨節第一主日」という、教会暦の新しい一年の始まりになります。 
 本日の福音書箇所は、ヨハネによる福音書18章31節から37節で、この箇所を含む聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ピラトから尋問される」と記されていて、「王」に関するイエス様へのピラトの尋問の場面が選択されています。ピラトは私たちが、礼拝などで唱えている「ニケア信経」や「使徒信経」に出てくる「ポンテオ・ピラト」のことです。今日の福音書箇所では、イエス様はイスラエルを独立させる政治的な王ではなく、「受難の王」「真理について証しをするために世に来た王」であることが(37節)示されます。旧約聖書はダニエル書7章「四頭の獣の幻」(ダニエルが夢で見た幻)からの箇所で、それらが表す世界の帝国への裁きの幻の場面です。人の子が天の雲に乗り、「日の老いたる者」(神の称号(「ずっと生きている」の意)の前に出て、権威、威光、それに「王権」を受けるという描写は、キリストの再臨を想起させます。使徒書の黙示録1章でも、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(4、8節)、「王たちの支配者」(5節)、イエス・キリストが「雲に乗って来られる」(7節)こと、その方は信じる者たちをさらに、「祭司」としてくださる、という部分が選ばれています。
 
 今日の福音書箇所を振り返ってみましょう。
 まず、31節に『ピラトが、「あなたがたが引き取って、自分たちの律法に従って裁くがよい」と言うと、ユダヤ人たちは、「私たちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。』とあります。
 ここでピラトは、「自分たちの律法に従って裁くがよい」と突き放します。最高法院は死刑にする権限はなくても悪事を裁く権限(判決のみでなく実際に処刑することも)はあったようです。ピラトの本音はイエス様の裁判には関わりたくない様子が見て取れます。しかし、33節で、ピラトは官邸に入り、イエス様を呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋ねます。これは、ユダヤ教の指導者が、「イエスは自分を王であると称して民衆の反ローマ運動を扇動する者」として訴えたので、「もしそうならば放っておけない」と、ピラトはイエス様に念を押したのだと思います。イエス様が王であると認めれば政治犯として裁判にかけられ、ローマ帝国への反逆であれば、ローマ式の十字架による死刑に相当します。
 ちなみに、このピラトの官邸が、イエス様の受難の途を辿る「十字架の道行き」の第1留にあたります。この跡地は現在、アラブ人の男子学校になっています。

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 ピラトの「ユダヤ人の王なのか」という問いに対して、イエス様は「本当にそう思うのか」というような答えをし、ピラトは「私はユダヤ人ではないので、お前が王であると考えたりするはずはない」というような話をします。そして「一体、何をしたのだ」と問い詰めます。
 それに対して36節でイエス様は答えられました。
「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」と。
 イエス様の国はこの世のものではない。この国は神の国のことと考えられ、それは領土や場所のことではなく、神様が王として恵みと力とをもって支配されることです。しかし、ピラトにはそれが理解できません。
 37節にこうあります。
『ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」』 
 イエス様は、ご自分のことを「真理について証しをするために世に来た」と言われたのです。
 このような箇所でした。

 今日の箇所の主題は「イエス様は王であるか」ということ、そして、王ならば「どのような王なのか」ということです。率直に言えば、イエス様はこの世の王ではなく、神の国の王であります。その王が、真理を証しするためにこの世に来たのです。
 では、真理とは何でしょうか?
 「真理」はギリシャ語では「アレーセイア」と言います。この言葉には「隠されたものが顕わになること」という意味があります。一方、「真理」と訳されるヘブライ語は「エメト」で、これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」という言葉は、この両方のニュアンスがあるようです。ここでの「真理」は、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエス様が言葉と生き方を通して現す」ということを示している言葉と言えます。そしてそれはイエス様ご自身でもあります。ヨハネ福音書第14章6節に『イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。』とあります。さらにヨハネ福音書第8章32節に「真理はあなたがたを自由にする。」という言葉があります。イエス様の言葉と生き方が私たちを自由にする、真理であるイエス様が私たちを自由にされるのです。それは言葉を換えれば、イエス様によってあらゆる者が神様の思いから離れた状況から回復され、解放されることであると言えます。

 今日の福音書の最後で「真理から出た者は皆、私の声を聞く。」とイエス様はお話しになりました。ここのギリシャ語を直訳すると「真理からある者はすべて私の声に聞く」です。英語の聖書(NRSV)では、「Everyone who belongs to the truth listens to my voice.”(真理のものである者(真理に属する者)は皆、私の声を聞く)」でした。私たちは真理であるイエス様のもの(イエス様に属する者)であり、イエス様の声を聞く者でありたいと願います。
 
 皆さん、私たちは教会暦の終わりの主日にあたり、この年、イエス様のもので、イエス様の声に聞く者であったか、自己を見つめたいと思います。そして、来たるべき新たな年を、私たちがイエス様のものでありイエス様に聞くことができるよう、また、すべての人が真理であるイエス様のもとに来て、神様の思いから離れた状況から回復するよう、導きを祈りたいと思います。