本日は聖霊降臨後第21主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇
所はイザヤ書53:4-12とマルコによる福音書10:35-45。説教では、イエス様が私たちに望むことは、権力の座に着いたり支配したりすることではなく、仕える者や僕として生きることであることを知り、そうできるように祈りました。また、磔刑像の姿を通して、イエス様が苦難の僕として謙遜な姿で仕える者の在り方を示されたことについて言及しました。
『仕える者、僕として生きる』
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日の福音書箇所は、マルコによる福音書10:35-45で、イエス様の受難予告直後の出来事です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ヤコブとヨハネの願い」です。
今日の箇所を振り返ってみましょう。
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエス様にお願いします。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」と。イエス様が王になった暁には、右大臣と左大臣にさせてほしいとお願いしたのです。これは人のために生きるというよりは自分のために生きていきたいという気持ちの表れであろうと思います。今日の箇所の前で、イエス様はご自身が十字架に架かって死んでいくという、三回目の受難予告をされるのですが、その後にこの話が続いています。イエス様は十字架に向かって、ご自分の命を人々のために捧げようとする、決心を新たにしている。しかし、弟子たちは全くその気持ちが分からず、結局自分たちを特別優遇してくれ、と言っているのであります。
これに対して、イエス様は、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」と言われました。
イエス様が言われる「私が飲む杯」「私が受ける洗礼」とは、先ほど読んでいただいた「旧約聖書」イザヤ書53章4節以下で預言された苦難「人々の罪をすべて自分自身に負い、屠り場に引かれていく小羊のように捕らえられ、裁きを受けて、命を取られるということ」と考えられます。
言い換えれば、イエス様が飲もうとする杯、受けようとする洗礼とは、イエス様が負った苦しみ、捕らえられ、侮(あなど)られ、嘲(あざけ)られ、鞭打たれ、十字架につけられ、死なねばならないという、これから始まろうとする苦難の道のことを言っておられるのです。
これと同じ苦しみを、私が受けるのと同じ苦しみを、おまえたちは受けられるのかとお尋ねになったのです。
すると、ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。
さらに、イエス様は言われました。
「確かに、あなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」と。
確かに、あなたがたも、私と同じ苦しみを受けることになる。キリストの弟子だということで迫害を受け、苦しみを受け、最後にはキリストのために死ぬことになるだろうと、彼らの殉教にいたる生涯を予告されたのです。
しかし、そうだからと言って、栄光の座に着いておられるイエス様の右や左に、誰が座るかというようなことは、誰にも分からない。それは、父である神様がお決めになることだと言われたのです。
イエス様が言われた「私が受ける洗礼」、「私が飲む杯」は、今日、私たちの教会が大切にしている洗礼式と聖餐式を思い起こさせます。洗礼を受け、聖餐にあずかるキリスト者は、それぞれの十字架を背負って、イエス様に従わねばならないことが、示めされているのではないでしょうか?
続いて、ほかの弟子たちは、ヤコブとヨハネが他の弟子たちを出し抜いてイエス様に特別の待遇をお願いしに行ったと聞いてヤコブとヨハネに腹を立て始めました。
イエス様の思いが、理解できない弟子たちであったことが分かります。
さらに、イエス様は、一同を呼び寄せて「世間の人々が偉いと思うような支配者や権力者が偉いのではなく、本当に偉い人は、仕えられる人ではなく仕える人なのだ」と言われました。
そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。
私たちは単なる道徳訓や修業のために「仕える者」や「僕」になるのではありません。それは、イエス様が、そのように生き、そのようにして死なれたからです。45節でイエス様はこうおっしゃいました。
「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
身代金とは、奴隷や囚人を解放するための代金のことです。イエス様は仕えるために、多くの人を解放するためご自分の命を捧げるために地上に来られたのです。この言葉は「私が生きたように生き、私が死んだように死になさい」という意味です。
このような内容でした。
イエス様は、言うだけでなく、教えるだけでなく、ご自身の生き方を通して、そして、十字架につけられて殺された死に様を通して、「仕える者」や「僕」の在り方を示されました。
祭壇の前の磔刑像(イエス様が十字架にお架かりになっている像)をご覧ください。
この姿を通してイエス様は、私たちに苦難の僕として、謙遜な姿で仕える者の在り方を示されたのであります。
イエス様が私たちに望むことは、権力の座に着いたり支配したりすることではなく、仕える者や僕として生きることであります。
今日の箇所をはじめ、マルコ福音書には、何度も、イエス様の思いに対する弟子たちの無理解が記されています。情けなくなるほどです。
では、私たちは、どれほど、イエス様の心の内を理解できているでしょうか?イエス様のみ心が分かっていると言えるでしょうか?
長年、信仰生活を送っているのですから、イエス様の思い、み心が分かっていると考えるかもしれません。
しかし、実際は、主であるイエス様に最も近いところにいて、イエス様のことを知っているはずの弟子たちでさえ、そうであったように、私たちも、主イエス様に対して、自分勝手なお願いごとをしてしまっているようなことはないでしょうか?
私たちが、イエス様が望んでいることを望めるように、イエス様の生き方を私たちが選ぶことができるように願います。そのようにイエス様に従って生きることによって、喜びや、本当の意味での平安や愛の心が湧いてくるのだと思います。
私たちが、イエス様の弟子として、権力や支配ではなく、仕える者や僕として生きるという、イエス様が大事にしたことを大事にして生きることができるように、皆さんと共に祈って参りたいと思います。