マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節前主日 聖餐式『最も小さい者の一人とは誰か』

 本日は降臨節主日。午前前橋、午後新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、エゼキエル書34:11-17 、詩編23とマタイによる福音書25:31-46。説教では、 「最も小さい者の一人」である私たちをも苦難の中から救ってくださったイエス様に感謝すると共に、身近にいる他の人々、小さな者の一人であるイエス様に奉仕することができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関連する粕谷甲一神父の書かれた「キリスト教とは何か⑧ 新しい霊性を求めて」の中のマザー・テレサの言葉も引用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 ハマスイスラエルの軍事衝突が始まって50日が過ぎました。やっと4日間の戦闘の一時休止が始まり、本日はその3日目です。段階的に双方の人質や受刑者の解放されています。まずはほっとしていますが、恒久的な戦闘停止につながるよう祈っています。

 さて、本日は降臨節主日、教会の暦では、一年最後の日曜日です。この日はカトリック教会では「王であるキリスト」という祭日であり、英国やアメリカ、カナダなど、多くの世界の聖公会でも「王なるキリスト」(Christ the King)の主日としています。イエス・キリストは王であり、王であるキリストを祝うのが本日の主日と言えます。「王」はキリストの三職務のうちの一つです。イエス・キリストには、預言者(神の言葉を預かる者)、祭司(祭儀を司る者)、王(統治者)の三つの務めがあるとされており、この務めに際して旧約において油が注がれました。救い主、メシアの語は「油注がれた者」を意味しています。
 また、聖書日課について今年はA年で、マタイによる福音書を中心に読んできましたが、それも本日で終わり、次週からはB年となり、マルコによる福音書を中心に読んでいくことになります。     
 
 本日の福音書はマタイ25:31-46です。この箇所は24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエス様の最後の説教でもあります。いわゆる「最後の審判」の話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が大切なのかをはっきりと示すための話と考えられます。

 本日の福音書の箇所を振り返ってみます。
 人の子(イエス様)が世の終わりに栄光に輝いて、天使たちをみな従えて来て、その栄光の座につきます。
 そのとき、すべての国の民が集められて、羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての者が右と左に振り分けられます。このことは当時のユダヤの人々にはイメージしやすかったと思います。というのはユダヤ地方では、羊と山羊は昼間は一緒に牧草を食べますが、夜には山羊は羊に比べて頑丈ではないので温かく保つように必ず分けて休ませていたからです。このように、すべての人が振り分けられて、右側にいる者は「祝福された人たち」と言われ、左側の者たちは「呪われた者ども」と言われます。
 34-36節で、王であるイエス様は右側にいる人たちに言います。
『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 イエス様は右側にいる、祝福された正しい人たちに「あなた方は私にこんなことをしてくれた」と具体例を出して天の国を受け継ぎなさいと言いました。
 すると、正しい人たちは「私にはそのようなことをした覚えはない」と言います。そこで、王であるキリストはこう答えます。40節です。
『よく言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』
 困っている人に親切にし、助け、奉仕をしたことが、実は主であり王であるキリストに対して親切にし、助け、奉仕をしたことだったのです。
 それから、41節で、王であるキリストは左側にいる人たちに言います。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその使いたちのために用意してある永遠の火に入れ。」と。それは、つまり、「私、キリストが困っていたときに何もしてくれなかったからだ」と言うのです。
 すると、左側にいる人たちは「私はあなたが困っているときに何もしなかったという覚えはありません」と言います。そこで、王であるキリストは答えます。
『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。』と。
 「困っている最も小さな者の一人にしなかったのは、私、キリストにしなかったことだ」と言うのです。
 最後にイエス様は結論づけます。46節です。
「こうして、この人たちは永遠の懲らしめを受け、正しい人たちは永遠の命に入るであろう。」
 このような箇所でした。

 実は、私にとってこの箇所、特に中心聖句である『この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』、私が親しんでいた以前の新共同訳では『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』のみ言葉は、私が養護学校の教員だったときに私の毎日を支えた聖句でありました。「この最も小さい者、目の前の障害のある子はイエス様であり、この子らにするのはイエス様にすることなのだ」と思って、日々の教育活動を行っていたのでした。
 今も、かつての教え子のいる障害者施設を訪れ月2回ボランティアでミュージック・ケアを行っていますが、それも「この方々にするのはイエス様にすること」という発想で行ってきました。先日、マッテア教会で行われたクリスマス・リース作りにこの施設の利用者の母親二人が参加しましたが、二人とも自分の子どもが「ミュージック・ケアを楽しみにしている」という話を妻にされたようで、この活動を続けてきて良かったと思いました。
 
 ところで、粕谷甲一神父の書かれたこの本「キリスト教とは何か⑧ 新しい霊性を求めて」の中で、シンガポールの宗教者平和会議でのマザー・テレサの10分間スピーチが紹介されていました(P.204)。

 その中で、マザーは「自分は1日2回聖体拝領をする」とおっしゃり、そしてそれは「1回は毎朝のミサでの聖体拝領(陪餐)で、2回目は修道院の外で貧しい人との出会いの中でする聖体拝領だ」と言われたそうです。粕谷神父がその宗教者平和会議に参加していて、そのスピーチを記しています。
 マザー・テレサは、道を歩いている時、路上で倒れて死にかかっている人を「死を待つ人の家」に連れて帰り、体を洗って人間らしい死を迎えさせ、また、食べ物がなく弱っている人に食料を運ぶことをされていました。その中で、この貧しい人々の中におられるイエス様とも出会っておられたのです。それを2回目の聖体拝領だと言っているのです。
 私たちにもそのような神秘が与えられています。御聖体におけるイエス様の現存、その神秘と共に、貧しい人や苦しんでいる人の中にイエス様がおられる、そういう真理も私たちに与えられているのであります。
『この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』というイエス様の言葉を心に留め、私たちも日常生活の中で出会う人々の中にイエス様の現存を見ることができるようになりたいと思います。

 さらに言えば、私たちも神様の前で何も誇ることのできない「小さい者」であります。その私たちの人生のあるときにイエス様が「私に従いなさい」と声をかけ、私たちを弟子としてくださいました。そして共にいて、苦難の中から救ってくださったことを思います。
 本日の旧約聖書の冒頭、エゼキエル書34:11・12にもこうあります。「実に、主なる神はこう言われる。私が自ら自分の群れを尋ね求め、彼らを捜し出す。牧者がその群れを散らされたときに自分の群れを捜し出すように、私は自分の群れを捜し出す。私は彼らを、雲と密雲の日に散らされたあらゆる所から救い出す。」
 主なる神は羊である私たちの世話をし、迷ったら捜し出し、そして救い出してくださるのです。それは神の大いなる慈しみによるのであります。

 皆さん、イエス様は「最も小さい者の一人」である私たちをも苦難の中から救ってくださいました。今度は私たちが、困っている小さな人々に奉仕する番です。そうすることは私たちの王であるキリストにすることなのです。私たちは、私たちが迷ったら捜し出し、救い出してくださる主なる神に感謝すると共に、ウクライナパレスチナの戦闘等で苦しんでいる人々や私たちの身近にいる助けを必要と人々、小さな者の一人であるイエス様に奉仕することができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン