マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕日前夕の礼拝 『羊飼いたちの礼拝』

 本日はクリスマス・イブです。前橋の教会で午後7時から30名の参列を得て、降誕日前夕の礼拝を捧げました。聖書日課イザヤ書9:1-3、5-6とルカによる福音書2:1-20。
 説教では、クリスマスとはキリスト礼拝であること、また、救い主の降臨を最初に告げられたのが罪人とされた羊飼いであることを知り、この羊飼いたちのように神の大きな愛に応えて、主をあがめ賛美して日々を過ごすよう勧めました。また、イルミネーションの光の意味についても言及しました。

   『羊飼いたちの礼拝』

 <説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。前橋聖マッテア教会のクリスマスイブの礼拝においでくださり、ありがとうございます。この教会に初めて来られた方はいらっしゃいますか? (いたら)ようこそおいでくださいました。心から歓迎いたします。
 今年は新型コロナウィルス感染症対策のため、例年より規模を縮小し、祈祷書に則った「夕の礼拝」を行うことにしました。感染の懸念からキャンドルサービスも中止しました。

 クリスマスとは何でしょうか? これは、イエス・キリストの来臨(降誕)を祝う祭です。私たちは今、救い主であるイエス様がこの世界に来てくださったことを皆でお祝いしています。本日は12月24日、クリスマスの前夕、イブですが、ユダヤでは日没と共に新しい日が始まりますので、もう25日、クリスマスなのであります。アドベントクランツのろうそくも、5本全部灯が点りました。5本目は色は白で、イエス様の誕生を示しています。
 クリスマスは、Christ-masですが、これは、キリストのミサ、キリスト礼拝という意味です。礼拝とは何でしょうか? 礼拝は、神様に感謝し神様を賛美するお祭りです。今日の聖書箇所では、羊飼いたちが世界で最初のクリスマス、キリスト礼拝を捧げています。羊飼いたちは救い主であるイエス様にお会いして、神様に感謝し神様を賛美する礼拝を行ったのです。
 
 ところで、先ほど読んでいただきました今日の第1日課イザヤ書第9章では、一番最初のところに「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。」とあります。この「大いなる光」というのはイエス様のことをさしています。闇の中を歩んでいる人が非常に多くいて、イエス様によって照らされたことを言っていると思います。ただ、イエス様が生まれた時に、それが大いなる光かどうか、といえば、非常に小さな、ただの赤ん坊の、貧しい家族に生まれた、ごくごく小さな光だったのですが、それが月日がたつに従って大いなる光として輝くようになったのです。
 クリスマスの光ということで、皆さんが一番に思い浮かべるのは、多分、街中に、そして最近は一般の家庭でもイルミネーションを飾っているお宅が増えていることではないでしょうか? 私たちの教会でも礼拝堂の前にイルミネーションを飾りました。

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 クリスマスの雰囲気を出すために、今やいろいろな所で夜になればきれいなイルミネーションの光が輝いています。これがクリスマスのシンボルのようなものになってるように思います。この光とは何でしょうか? 実は、その光はイエス様なのです。この世の暗闇に、神様が私たちを愛するが故に、光である神様の独り子、イエス様をお送り下さった。これがクリスマスの神秘です。

 さて、本日の福音書箇所は別紙の聖書日課の2ページ、ルカによる福音書の2章1節から20節までです。
 最初のところに、皇帝アウグストゥスが出てきます。アウグストゥスローマ帝国の初代皇帝です。絶大な権力を持ち「全世界の救済者」と崇められ、武力・権力を背景に「ローマの平和」とか「アウグストゥスの平和」と呼ばれるものを築きあげた当時の世界の支配者です。それに対して、イエス様は、彼の治世下のユダヤベツレヘムで貧しい環境のもとで生まれました。両者を対照的に提示することで、この福音書を記したルカは真の平和の確立者としての救い主の本質を示そうとしたのではないかと考えられます。なお、ナザレからベツレヘムまでは直線距離で約130㎞、徒歩で4日ほどかかる距離です。その長い距離を身重のマリアはロバに乗って移動したと考えられます。
  
  イエス様誕生の知らせを最初に聴いたのはどんな人だったでしょうか? 

  それは羊飼いたちでした。
 羊飼いとはどのような人たちだったでしょうか? 当時の羊飼いの身分や生活がどんなものであったかは、本日の福音書の8節からも想像できます。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。
 当時の羊飼いは、自分の羊を飼っていたわけではなかったようです。彼らは日雇い労働者であり、いつ首になってもおかしくない人々でした。そして、その仕事は過酷を極めました。昼は、照りつける太陽の光を避けることはできず、夜は夜で、しんしんと冷える冷気に身をさらしていなければなりません。そして、羊を襲う野獣をその杖や鞭(むち)、また石ころで追い払わねばならなかったし、羊泥棒もいたので、全員が眠るわけにはいかず、夜通し交代で番をしなければならなかったようです。彼らは家も財産もなく、多分、家族もなく暮らす落ちぶれた人々です。だから、住民登録をする必要もない。つまり、住民の数に数えられてはいない。アウトカーストカースト外の人たちだったようです。ヨセフと許嫁(いいなずけ)のマリアは住民登録のため本籍地に移動を余儀なくされましたが、羊飼いたちはそれをする必要がなかったのです。羊飼いたちは、ローマ帝国アウグストゥスから見れば、数えるべき人間でもないのです。そして、ユダヤ人社会の中では、律法に定められた生活習慣を守ることもできない汚れた罪人でもあり、周りの人からはとても低く見られていました。つまり、神様にも人にも見捨てられた人々ということです。
 しかし、羊飼いたちは、神様が救い主を送ってくださるということを信じ待ち続けていました。救い主であるイエス様誕生の知らせを真っ先に受けたのはこの人たちだったのです。天使が近づき、彼らにこう言っています。11節です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と。さらにこの天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言いました。14節です。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と。このシーンが今日の礼拝の最初に歌った聖歌第91番「荒野の果てに」の情景です。

 あなたがたのために、最も低く神にも人にも見捨てられた人々のために救い主はこの世界に来られたのです。この時の羊飼いたちの思いを想像してみます。「どうせ自分たちは神にも人にも見捨てられた半端者だ」と人生に対して投げやりになっていたかも知れません。しかし、天使は羊飼いたちに「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げ、羊飼いたちがダビデの町(ベツレヘム)に行ってみると天使が言うとおりだったのです。羊飼いたちはこのように思ったのではないでしょうか?
「神様は私たちを見捨ててはおかれなかった。神様は私たちに目を掛けてくださっている。私たちは生きるに値する存在なのだ」と。
  
 ところで、イエス様は神の独り子ですから、神様は立派なお城や設備の整った場所や家で生まれさせることもできたでしょうに、どうしてイエス様を貧しく汚い馬小屋で生まれさせたのでしょうか?
 イエス様が王様の宮殿や、偉い人の家、金持ちの住まいなどにお生まれになっていたら、貧しい羊飼いたちはイエス様に会うどころか、そばに近寄ることもできなかったでしょう。でも、生まれたばかりの赤ちゃんのイエス様は、だれもが訪れることのできる馬小屋の飼い葉桶の中で眠っておられます。イエス様は、すべての人のため、特に周りの人から低く見られ、貧しくされた人たちのためにこの世に来られたことを神がお示しになったからだと思います。
 神様は貧しく小さい人達に温かいまなざしを向けられているのです。クリスマスの時に、このことに思いをはせたいと思います。そして、イエス様の誕生を目撃した羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ことにも注目したいと思います。神様から特別に目をかけられて貧しい羊飼いたちは、イエス様こそ罪の暗闇から救って下さる方であることを周りの人々に伝えたのでした。
 私たちも心に暗闇を抱える貧しい者です。その私たちに神様は温かなまなざしを向けておられます。そして大きな愛である光として幼子イエス様をこの世に派遣されたのです。
 英国人が好きな言葉で「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という言葉があります。羊飼いたちは幼子イエス様を抱きかかえたかもしれません。そのイエス様に羊飼いたちはいだかれることになります。それは私たちも同様です。私たちも「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」のです。それは大いなる神秘です。そのことを覚え、幼子イエス様をこの世に派遣された神様の大きな愛に応えて、主をあがめ賛美して日々を過ごすことができるよう、祈り求めたいと思います。