マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕後第1主日 聖餐式 『言として受肉されたイエス様』


 本日は降誕後第1主日です。午前前橋の教会、午後新町の教会(クリスマス礼拝を兼ねる)で聖餐式を捧げました。
 聖書日課イザヤ書61:10-62:3・ガラテヤの信徒への手紙3:23-25、
4:4-7・ヨハネによる福音書1:1-18。 
 説教では、クリスマスはイエス様が言として受肉され私たちの世界に来て共に生き、恵みと真理が現れた出来事であることを理解し、ロゴスであり神であり光であるイエス様を見つめ、この方をもっと知っていくよう祈り求めました。神の言が受肉し人間となったことで思い浮かべる十字架の聖ヨハネの詩「降誕」も紹介しました。

   『言として受肉されたイエス様』

 <説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
(前橋・・・今日は降誕後第1主日です。12月24日のクリスマスイブ、25日のクリスマス(降誕日)後の最初の主日です。)
(新町・・・皆さんクリスマス、おめでとうございます。今日は降誕後第1主日ですが、本年はこの日にクリスマス(降誕日)の礼拝を兼ねて聖餐式をお捧げしています。)
 今日は降誕節の最初の主日です。
 今日の聖書についてですが、福音書箇所はヨハネによる福音書1章1節から18節で、ヨハネ福音書のプロローグ全体が選ばれています。「ロゴス賛歌」と言われる箇所です。旧約聖書イザヤ書のシオンの救いの箇所で、「新しい名」をもって呼ばれる新しい時代の開始が示されます。使徒書はガラテヤの信徒への手紙の3章と4章からとられ、4章4節でパウロは「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」と述べ、続いて、私たちが「神の子」とされることを強調する箇所が選択されています。これらの聖書箇所、特に福音書を通して、クリスマスの意味やクリスマスが与える私たちへのメッセージ等について考えたいと思います。

 今日の福音書では、3つの箇所を中心にお話ししたいと思います。1-5節、そして14節と18節です。ちなみに、6節以降は洗礼者ヨハネのことなどについて語っています。

 最初に1-5節についてです。まず、1・2節です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
 ここでの「言(ことば)」は一般に使われている言の葉の「言葉」ではありません。以前の新共同訳や口語訳、古くは文語訳でも漢字一文字の「言」と記されていました。普通の言葉でないことを意識してのことだと思います。この「言(ことば)」という言葉の原語のギリシャ語は「ロゴス」です。ここでの「ロゴス」はイエス・キリストと見做されています。
 ロゴスというギリシヤ語は、もともとギリシヤ人哲学者たちによって用いられていました。彼らは、すべての物は、形が存在する前に考えにおいて存在していた、と考えたようです。その考えをロゴスと呼びました。
 ヨハネの場合は、さらに全ての物の背後には、考えだけでなく、考える方がいたはずたと言っています。「初めに、ロゴスがあった。」というのは、すべての物の前に考える方がおられる、ということです。
 それが、聖書で語られている神様です。旧約聖書の創世記冒頭には、「初めに神は天地を創造された。」とあります。神様は、すべての物が存在する前に、すでに存在されていました。永遠の昔から生きておられるのです。そして、ヨハネ福音書によると、イエス様も最初からおられました。最初に父なる神がおられて、その後にイエス様が存在し始めたということではありません。「先在のキリスト」と言われます。「先に」「存在する」という先在です。
 そして、ヨハネは、「ことばは神であった。」と断言しています。イエス様は神なのです。つまり、イエス様はすべての物の前に存在されていた永遠の方であります。  
 3-4節です。
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。」
 すべての物を造られた神様は、人の命も造られました。すべての命の源は神様にあります。人は、単に肉体が生きるだけでなく、また精神的に生き生きとしているだけでなく、霊的に生きるために造られました。そして、これは神様につながることによって、初めて可能になります。 
 5節です。
「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」とあります。
 この前の新共同訳では「暗闇は光を理解しなかった。」と訳されていました。ここを直訳すれば「闇はそれをつかまなかった」です。「つかむ」を「把握する」ととれば「理解しなかった」ととらえられ、創世記の冒頭を想起すればを「勝たなかった」と訳すことができ、どちらも可能です。
 闇を消したいと思って一生懸命手を振っても、消え去りません。闇を消すのは、ただ光を照らすことだけです。自分の判断のみで努力しても、意味のある生き方をすることはできません。「光であるイエス様を信じることによって、真に生きることができる」とヨハネは、そして聖書は言っています。

 続いて、少し跳んで14節です。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言は肉となって、私たちの間に宿った。」とあります。「私たちの間に宿った。」というこの表現は、ギリシャ語を直訳すると「私たちの生活の現場に天幕(テント)を張った」となります。神の言、神の命そのものである主イエス様は、私たちの生きるこの世界、この現実の生活のまっただ中に、テントを張って、私たちと共に生き始められたのです。
 また、「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。それは、神の御子イエス・キリストがこの世界に来られたことによる栄光であり、恵みと真理に満ちている、ということです。それは、今ここに集っている私たちにも与えられています。これこそ神様が私たちに与えたクリスマスのメッセージと考えます。
 これから退堂で歌う(先ほど入堂で歌った)聖歌82番の4節の2・3行に「神のみ言 人となり 今日生まれ 世にあらわれぬ」とありますが、これが「クリスマスの意味」です。つまり、「神のみ言であるイエス様が人としてこの世に現れたこと」です。
 
 最後に18節です。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐(ふところ)にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 誰もまだ、神様を見たことはないとヨハネは断言しています。神様は、目に見えない方です。しかし、神様ご自身をそのままの姿でお見せになった方がいます。それがイエス様です。イエス様は、ヨハネ福音書のもっと後の方(14:9)で「私を見た者は、父を見たのだ。」と言われました。ですから、父なる神を知るために、私たちはしっかりと、イエス様を見たいと思います。 
                                                
  皆さん、神様は地上の私たちをご覧になり、それぞれの心を受け止め真剣に考え、イエス様を「言」(ロゴス)としてこの世に派遣して下さいました。それは神様が私たちを心から愛するがゆえです。イエス様の中に私たちへの神の愛が込められています。イエス様の中に、「私たちの人生に癒しや希望を与え、励まし、導き、完成しよう」という神様の思いが込められています。イエス様こそ、まさに神の言(ことば)です。そして、クリスマスは主イエス・キリストが、私たちの生きる世界に来て人間の姿をとり(「受肉(incarnation)」と言います)、私たちと共に生き、恵みと真理が私たちに現れた出来事であります。

 神の言(ことば)が受肉し人間となったことで、思い浮かべる詩があります。それは、十字架の聖ヨハネによる「降誕」という詩です。
  この詩で、十字架の聖ヨハネは、主の降誕を花嫁(キリストの神秘体としての人)との結納と捉えています。十字架の聖ヨハネは16世紀、スペインのカルメル会の修道司祭、聖人であり、35人しかいない教会博士の一人でもあります。
「降誕」の詩はこの本「十字架の聖ヨハネ詩集」の中にあります。

f:id:markoji:20211226212839j:plain

 こんな詩です。

『とうとう生まれる時がやってきた。
 かくて、花婿が その閨室(ねや)から出て 花嫁を その腕に引き寄せ抱きし めるように、
 あの優美(やさ)しい母は 彼を飼い葉桶に寝かせた、そのとき、そこに居合 わせた動物たちの間に。 
 人々は 歌を歌い、天使たちは 調べを奏でた、
 こんな(に違う) 二者の間に行われた婚姻を祝って…
 ※ こんな二者の間・・・みことば と 肉

 しかし、飼い葉桶に置かれた神は  そこで、涙を流して 泣いていた、
 その涙は 花嫁が持参金として持ってきた宝石。
 そして、こんな交換(とりかわし)を見た母は 言葉もなかった。
 人間の涙は 神のものとなり 歓喜(よろこび)は 人のものとなった。
 それとこれとは いつも 縁のないものだったのに。
 ※それとこれ・・・人間の涙 と 神の歓喜

 十字架の聖ヨハネによると、キリストの降誕は、神と人との結納(婚約の取り交わし)であり、クリスマスは神である御言葉と人である肉の婚姻ととらえています。それが、神の言(ことば)が受肉し人間となったということだと思います。
 ぜひこの詩をもう一度ご自分でお読みになり、心に納め思い巡らしてみてください。

 皆さん、イエス様は言(ことば)としてこの世に現れました。そして、クリスマスはキリストが、私たちの生きる世界に来て私たちと共に生き、恵みと真理が私たちに現れた出来事であります。私たちはイエス様を見ることで神様を知ることができます。私たちはロゴスであり命であり、光であるイエス様を見つめ、この方をもっともっと知るよう祈り求めたいと思います。

 <新町>
 お祈りします。
 「父なる神様、クリスマス礼拝に私たちをお招きくださりありがとうございます。この1年のみ守りに感謝いたします。また、私たちのためにあなたの独り子であるイエス様を生まれさせてくださり、重ねて感謝いたします。
 イエス様は言(ことば)としてこの世に現れました。そして、クリスマスはキリストが、私たちの生きる世界に来て私たちと共に生き、恵みと真理が私たちに現れた出来事であることが分かりました。私たちがロゴスであり神であり光であるイエス様を見つめ、この方をもっと知ることできるようお導きください。
 本日、様々な事情で、この聖餐式に集うことのできなかった人々をあなたが祝福してくださいますように。そして、新町聖マルコ教会に連なるすべての人々にあなたが目を留め、恵みをお与えくださいますようにお祈りいたします。
 これらの感謝と祈りを私たちの主イエス・キリストによって御前にお捧げいたします。アーメン」