マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第6主日 『愛の本質を示した友なるイエス様』

 本日は復活節第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、使徒言行録10:44-48 、詩編98、ヨハネの手紙一 5:1-6 及びヨハネによる福音書15:9-17。説教では、イエス様が私たちに示した愛の本質及びイエス様は友であることを知り、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながる喜びを分かち合っていけるように祈り求めました。
 テーマと関係する聖歌482番の歌詞や星野富弘さんの「愛、深き淵より」の中の文章も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 星野富弘さんが、一週間前、4月28日に逝去されました。富弘さんの御国での魂の平安を祈ります。富弘さんの詩画は多くの方に感動を与え、神様から特別の使命が与えられた一生だったと思います。5月3日のご葬儀にYoutubeで参列しました。司式をされた内田和彦牧師は説教で富弘さんが苦難を通して神に救われたことを話し、遺族挨拶で昌子夫人は、富弘さんは文や絵をかくことが遺言のようで、作品は子供のようだった、今は天に帰って寂しいと話しておられました。

 さて、本日は復活節第6主日です。復活節も終わりに近づきました。今週の木曜、9日は昇天日、復活日(イースター)から40日後にあたります。その日はマッテア教会では聖餐式がありますので、参列していただければうれしいです。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書15節9節-17節です。先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。イエス様が最後の晩餐の席上で弟子たちに行った長い告別説教の一部であります。
 この箇所には3つの内容があります。「愛の本質」についてと「友」について、そして「神の選び」についてです。それぞれの中心聖句を基に思い巡らしたいと思います。

 11節・12節に「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。」とあります。
 「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエス様と私たちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることです。
 「私があなたがたを愛したように」とイエス様は、まず御自分が先に弟子たちを愛してきたことをお示しになり、そのように「互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
 この「愛する」の原語(ギリシャ語)は「アガパオー」です。神の愛を表す「アガペー」の動詞形です。原文は命令形ではなく、直訳は「[あなたたちは]愛するようになる」であり、現在形で表されており継続を意味しています。つまり私があなた方をまず愛したから、あなたがたは「続けて愛し合うことになる」というニュアンスです。そのように生き続けていく中で、イエス様の喜びが私の喜びとなっていくということと考えられます。
  大阪の釜が崎で日雇い労働者と共に生活しながら、聖書の翻訳をしている本田哲郎神父の訳では12節はこうなっています。
 「わたしがあなたたちを大切にしたようにあなたたちが互いに大切にしあうこと、これこそ、わたしの掟である」と。
 本田神父はこれまで「愛する」と訳されていた部分を「大切にする」と訳し変えているのです。
 これは、日本の戦国時代のキリシタンたちが「神の愛」を「デウスの御大切」と訳していたのと似ています。当時は、仏教では、「愛」=「愛欲」であり、浄化すべきものと捉えられていたので、キリスト教の教義の中心となる「神の愛」という概念を正しく伝えるために、「愛」でなく「御大切」という言葉を使ったようです。
 キリスト教における「愛」とは、その人のことが好きということとイコールではありません。それは相手のことを思いやり、共感し、受け入れ、理解し、ゆるそうと努力することです。たとえ、その人が憎らしくても、その人のことを大切にしていこうとするのが、キリスト教における「愛する」ということであります。
 「この私を愛してくださった」というイエス様の愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令ではなく、「恵み」なのであります。
 
 13節・14節はこうです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
 13節ではイエス様の愛が語られています。ここの「捨てる」の原語(ギリシャ語)は「ティセーミ」、直訳は「置く」です。13節全体を直訳すれば「自分の命を友のために置くことより大きい愛はない」であり、十字架に示されたイエス様の愛を指していると考えられます。14節の原文では、最初に「あなたがたは私の友である」と述べてから、その条件に触れ、「私が命じたことを行うなら」と説いています。条件を後に述べるのは、「私の友である」ことを強調し、イエス様の友となるという希望の中で、戒めの実行に向わせるためであります。
 さらに15節でイエス様はこうおっしゃっています。
「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
 僕は主人のしていることを知りません。しかし、イエス様は父から聞いたことをすべて弟子たちに知らせました。だから弟子たちはイエス様の友なのです。私たちもイエス様は友と呼んでくださるのです。

 16節はこうです。
「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである。」
 弟子たちがイエス様を選んだのでなく、「私が」彼らを選んだ。このようにイエス様のイニシアチブを強調した後で、「(あなたがたを)任命した」と述べています。何のために任命したかと言えば、「あなたがたが行って実を結び、その実が残る」ためであり、「私の名で父に願うなら何でも、父が与えてくださる」ためです。ここで「任命した」と訳している言葉の直訳は「置いた」であり、この語は13節で「(命を)捨てる」(直訳では(命を)「置く」)と訳した動詞と同じです。十字架に命を置くイエス様が、同じ愛をもって、弟子を使命へと置くのであります。

 今回、この福音書箇所では、14節以下の「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はあなたがたを友と呼ぶ。」のみ言葉が響きました。イエス様が私たちを友としてくださる。親しい友だちとしてくださるということです。このことをしっかり受けとめたいと思います。
 「イエス様が友である」ということでは福音書前に歌った聖歌482番「いつくしみ深き友なるイエスは」をご覧ください。この聖歌は一昨日の星野富弘さんの葬儀でも歌われました。1節はこうです。
「いつくしみ深き 友なるイェスは 罪 咎(とが) 憂いを 取り去りたもう 心の嘆きを つつまず述べて などかは降ろさぬ 負える重荷を」
 イエス様は慈しみ深い友なるお方、言い換えれば、私たちを愛し、大切にしてくださる友だちです。そして、私たちの罪や過ちやつらい思いを取り去ってくださるお方です。「などかは降ろさぬ」とは、「なぜ降ろさないのか」という意味の反語的疑問文です。現代語にすれば「イエス様に心の嘆きをすべて話して、背負っている重い荷物をなぜ降ろさないのですか?(降ろしましょう)」となります。
 以下、2節では、「イエス様は、私たちが弱いことを知っていてお腹を痛めるほど思ってくださり、私たちが悩んだり悲しんだりして落ち込んでいる時も、祈りに応えて慰めてくださる」ことが歌われています。さらに、3節では、「イエス様は、ずっと私たちを愛して導いてくださり、世の友だちが私を捨てたとしても、祈りに応えて大事にしてくださる」ことが示されています。
 イエス様は、このように私たちの友なのであります。

 ところで、星野富弘さんが、多くの方に知られるようになったのは、手記等を収めた最初の著作「愛、深き淵より」の出版によります。今回、この本の新版を読んで、気づかされたことがあります。

 この本の題名となった「愛、深き淵より」の「愛」は、本日の福音書で述べられている「神の愛」、私たちを大切にしてくださるアガペーです。「深い淵」は詩篇130編の冒頭の言葉であり、私たちの人生にふりかかって来る災難や困難、苦しみなどを指すと考えられます。不慮の事故で手足の自由を失った富弘さんですが、神様はそれで終わりになさらず、「詩画」という賜物を与え、さらにキリスト者としての新たな生き方をお与えになりました。
 富弘さんの洗礼について、この本にこうありました(P.181)。それは1974年12月22日のことでした。「私の額に牧師の手によって三滴の水がつけられ、私が神の言葉に従って、この地上での道を天国の故郷に帰れるその日まで、神の愛によって力強く歩んでいくことができるよう祈ってくれた。」私は、今、天国の故郷で友であるイエス様と共におられる星野富弘さんを思うのであります。

 皆さん、イエス様は私たちをも、友として大切にしてくださっています。
 私たちはそのことを感謝し、今度は私たちが、今、関わっている家族や友だちなど、すべての人を大切にして、愛を生きることができるように、そしてイエス様とつながっている喜びを分かち合っていけるように、そのようにイエス様の心を生きることができるように、祈り求めて参りたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン