マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「星野富弘さんと私のストーリー」の報告』

 去る6月1日(土)、前橋ハレルヤブックセンターで開店5周年記念の読書会「星野富弘さんと私のストーリー」が7名の参加を得て開催されました。
 私はこの読書会のコーディネーターとして進行を務めました。所用があり参加できなかった3名の方から、事前に手紙やメールをいただきました。それらも紹介しながら進めました。
 この会では、一人一人が人生の途上で響いた富弘さんの詩画や文章を紹介しご自分の人生とからめて語っていただきました。今回は個人情報保護のため、主催者以外はイニシャルで表記いたします。

 最初に私が「開会の祈り」をしました。そこではハレルヤブックセンターが5周年を迎えられたことや帰天された星野富弘さんの魂の平安とご遺族へ慰めが与えられること等も含めて祈りました。
 次に、手紙をくださり私のブログでも紹介したO・Tさんの「小手毬の詩」に関わるエピソードを紹介しました。指導主事だったO先生が、新採用の先生方に富弘さんの詩を使って教師としての心構えを語ったのでした。詳しくは5月22日のブログをご覧ください。

 参加者からは、まず、Y・Mさんが人生で心に響いた作品「にせアカシア」を紹介してくださいました(「鈴の鳴る道」収録)」。 
『何のために 生きているのだろう
 何を喜びとしたら よいのだろう
 これから どうなるのだろう
 その時 私の横に あなたが 一枝の花を 置いてくれた
 力をぬいて 重みのままに 咲いている
 美しい花だった』
 そして、現在は昨年のカレンダーの一枚「当てはずれ」(「あなたの手のひら」収録)、気がついたら一年中この作品をずっと飾って眺めていたそうです。
『あなたは私が 考えていたような方ではなかった
 あなたは私が 想っていたほうからは来なかった
 私が願ったようには してくれなかった
 しかし あなたは
 私が望んだ 何倍ものことを して下さっていた』 
 富弘さんの作品は、それぞれの人生の途上で共に寄り添ってくれる友達のような存在なのだと思いました。

 二人目のN・Sさんは、みどり市在住で、30年以上前にみどり市で就職した時にその会社の社長に市内の施設を案内され「富弘美術館」を訪れたのが富弘作品との出会いだったとのことでした。心に響いた詩画では「オダマキ」(「鈴の鳴る道」収録)を挙げてくださいました。
『いのちが一番大切だと 思っていたころ
 生きるのが 苦しかった。
 いのちより 大切なものが あると知った日
 生きているのが 嬉しかった。』
 健康な時には気がつかないものがあることや「いのちよりも大切なものとは何か」ということについて、話題になりました。

  続く、ハレルヤブックセンター支援友の会会長の清野結実子さんは、中学2年生の時の教科書で富弘作品に出会ったそうです。それは詩画集「鈴の鳴る道」からの表題のエッセイです。以下の文章を読んでくださいました。
『車椅子に乗るようになってから12年が過ぎた。その間、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。ほんとうは曲がりくねった草の生えた土の道の方が好きなのだけれど、脳味噌までひっくりかえるような振動には、お手あげである。だいいち、力の弱い私の電動車椅子では止まってしまう。
 車椅子に乗ってみて、初めて気がついたのだが舗装道路でも、いたるところに段差があり、平らだと思っていた所でも、横切るのがおっかないくらい傾いていることがある。
 ところが、この間から、そういった道のでこぼこを通る時に、ひとつの楽しみが出てきた。ある人から小さな鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶら下げた。手で振って音をだすことができないから、せめて、いつも見える所にぶらさげて、銀色の美しい鈴が揺れるのを、見ているだけでも良いと思ったからである。 道路を、走っていたら、例のごとく小さなでこぼこがあり、私は電動車椅子のレバーを慎重に動かしながらそこを、通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴ったのである。心にしみるような澄んだ音色だった。
「いい音だなぁ」
 私はもう一度その音が聞きたくて、引き返してでこぼこの上に乗ってみた。「チリーン」「チリーン」小さい音だったけれど、ほんとうに良い音だった。 その日から道のでこぼこを通るのが楽しみとなったのである。
 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。しかし、小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが私の気持ちを、とても和やかにしてくれるようになったのである。
 鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか ”
 その鈴は整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時 揺れて鳴る鈴である。美しく鳴らしつづける人もいるだろうし、閉ざした心の奥に押さえ込んでしまっている人もいるだろう。 私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。
 私の行く先にあるみちのでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。』
 この文章を授業では読むだけで、特に読解で細かくは学ばなかった、それがかえって良かったというお話でした。そして、ご自身が妊娠中に数ヶ月車椅子を利用したことの経験を披露し、富弘さんの文章に共感すると共に富弘さんはずっと車椅子生活であることに思いを馳せたことを話されました。

 続いての、K・Fさんはこの会のチラシを見て、この歌「私のいのち(チューリップ)」(「花よりも小さく」収録)が胸に響いてきて、命の根源的なものに訴える力のある方だな、と思ったとのことでした。
『ありがとう 私のいのち
 こんなに生きられるなんて 思わなかったよ
 今、二十一世紀 春!』
 そして、今まで富弘さんの本を読むことはなかったそうですが、今回、Forest Booksの「あの時から空がかわった」に出会って購入し「今は生かされているのだから生きよう」と共感しました、とのことでした。

 次に、K・Fさんのお隣りにおられたK・Yさんは富弘さんと同じ教会の信徒で、礼拝中もそばにいてお世話もされたそうで、富弘さんの意外な一面を語ってくれました。それは、富弘さんは冗談が好きでよく笑わせたり、「礼拝が終わってからレストランに行って食事をすることが楽しみ」と言っていたことや、いつもブランドものの良い服を着ていましたがそれが「良いものかは知らない」と言っていたことなどでした。
 K・Yさんのお好きな作品は2つ、そのクリアファイルを持ってきて紹介されました。まずは「きく」(「風の旅」収録)。
『よろこびが集ったよりも 悲しみが集った方が 
 しあわせに近いような気がする
 強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が
 真実に近いような気がする
 しあわせが集ったよりも ふしあわせが集った方が
 愛に近いような気がする』
  もう一つは「つばき」(「風の旅」収録)。
『木は自分で 動きまわることができない
 神様に与えられたその場所で 精一杯枝を張り
 許された高さまで 一生懸命伸びようとしている
 そんな木を 私は友達のように 思っている』
 どちらの詩も「もっともだな」と思い、私の最も好きな詩とのことでした。

 「よろこびが集ったよりも~」の詩は、先日手紙をくださったO・Yさんがご自身が書かれた本の中で紹介していました。それはこの詩が、逆説的表現で真に迫ってくること、ことに「弱くて強い逆説的にしか表現できないような人間の真実をこの詩から感得した」と記されていました。この詩について、O・Yさんは、『「真実」という言葉にまず魅せられ、次に「福祉(しあわせ)」に引きつけられ、「福祉」は人間のあらゆる可能性を示しながら「教育」に行きづまった私を先導してくれた』、と記していました。富弘さんの作品は多くの方の人生を開く役割を果たしていると思いました。

 次に、私にメールをくださったT・Yさんの文を紹介しました。好きな作品は「ぺんぺん草(なずな)」(「風の旅」収録)。
『神様がたった一度だけ この腕を動かして下さるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう
 風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら 
 そんな日が本当に来るような気がした』
 高校生の時、市役所に初めて展示され見に行き、涙があふれた、とのことでした。今も、群大病院に初期の字、字がちゃんと書けないときの展示があり、時々見させていただき、涙している。T(障害のある息子さん)を30年育てて神様なんていないと思ってしまうこともある。仕事なら手を引くが、親子は投げ出すわけにいかない、とてもしんどいものを背負っている。富弘さんの言葉を思い出しながらこれからも頑張らなくちゃと思う。こう記されていました。
富弘さんの作品が様々な境遇の方に生きる力を与えていることを思いました。

  次に話されたハレルヤブックセンタ-の福島和子店長さんは、富弘さんが群大病院に入った頃からご存じで、ずっと見てこられました。富弘さんの作品や生き方を神様が用いてらっしゃることを受け止めていきたい、と話されました。富弘さんの感性もあそこまで研ぎ澄ませてくださったのも神様。富弘さんは神様が自分にどうされようとしているかをいつも考えている、クリスチャンの見本と思う、と話されていました。

 最後に私(福田)が富弘作品とのストーリーを話しました。作品は三浦綾子さんとの対談集「銀色のあしあと」です。このことについては、5月16日の私のブログをご覧下さい。追加で、今、私の心に響いている作品を紹介しました。それは「真っ直ぐに(オミナエシ)」(「足で歩いた頃のこと」収録)。
『坂道もあるけれど 
 この道の先には
 両手を広げて 待っている 人がいる
 真っ直ぐに この道を行こう』
 御国の門を開いて招いておられる方に向かって、残された人生を真っ直ぐに歩いて行きたいと思います。

 この後は、時間の許す限り自由に感想や思いを分かち合いました。その中では、富弘さんは、怪我によって失ったものもあるけれど、それを神様から与えられたものととらえて自分のできることで人によろこびを与えていること、まず神様から愛されていることがあり、それが作品となって表現されていること等が話題になりました。聖書を読んだり信仰によって生かされていることや祈りを持って作品創作をしていること等を、富弘さん自身の文章や言葉で紹介しました。
 終わりに、「かぎりなくやさしい花々」の「あとがき」の文を読みました。それはお父さんと久保田さん(障害者センター所長)が相次いで亡くなられたことについての文章でした。
『父と久保田さんの死を通して、大切なことも教えられました。それは形あるものは必ずなくなるけれど、その心はいつまでも残り、静かに私の生きる力になっているということでした。
 散っていく花の横に開きかけたつぼみがあり、枯れた一つの花のあとにはいくつもの実が残されます。
 人間が生きていることは、何と一枝の花に似ているのでしょう。
 主は与え、主は取られる
 主の御名はほむべきかな(ヨブ記1章21節)
 旧約聖書の言葉を、しみじみと思う毎日です。』
 この文章のように、星野富弘さんの心も私たちの心にいつまでも残り、これからも多くの方々に生きる力を与え続けるでありましょう。

 最後に、「閉会の祈り」を清野結実子支援友の会会長がされました。その中では閉会の感謝と共に、今後も前橋ハレルヤブックセンターが主のご用(栄光)のために用いられること等も含めて祈られました。
 私の祝祷をもって、開店5周年記念読書会「星野富弘さんと私のストーリー」のすべてを終わりとしました。多くの気づきのあった充実した2時間でした。この時を与えてくださった星野富弘さんと前橋ハレルヤブックセンター、そして守り導いてくださった神様に感謝と賛美を捧げます。
 参加者がそれぞれの心に響いた富弘作品を持って記念写真を撮りました。