マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第1主日聖餐式 『主を拝み、主に仕える』

 本日は大斎節第1主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、創世記2:4b-9、15-17、25-3:7とマタイによる福音書4:1-11。大斎節の始まりに当たり、主イエス様を模範とし、神に信頼し御言葉によって誘惑を試練に変え、神を礼拝し仕えていくよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所から思い浮かべたトマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」の文章も引用しました。

<説教>
    父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第一主日です。大斎節はカトリックでは四旬節プロテスタントでは受難節、英語ではレントといいます。先ほどの入堂の聖歌129番「四十日(よそか)経(ふ)るまで 糧(かて)をも断(た)ちて 惑(まど)わす者に わが主は勝てり」を歌うと「ああ、大斎節が始まったな」と思います。
 大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日(今年は先週の水曜日、2月22日)から復活日前日までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。四旬節という言い方は40日間のことを意味します。大斎節は、イエス様の「荒れ野での試練」に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという悔い改めと反省の期間という意味があります。祭色は紫です。
 復活日(今年は4月9日)の前日の聖土曜日までが大斎節で、大斎節はイースター(復活日)を迎える準備の時という意味合いがあります。

 大斎節第一主日では、毎年イエス様の荒れ野での試練、一般に「荒れ野の誘惑」と呼ばれる福音書の箇所が取られています。今年、A年は、ただ今お読みしましたマタイによる福音書第4章1節以下の箇所です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「試みを受ける」となっています。旧約聖書は創世記2章4節以下で、神様から「命の息を吹き込まれた」人(7節)とその妻(女)が神様から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまうという、蛇の誘惑の物語です。

 本日の福音書の箇所を順に見ていきたいと思います。
 本日の箇所は大きく5つの箇所に分かれています。
 まず、1~2節。
『さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日四十夜、断食した後、空腹を覚えられた。』
 ここでは「試み」という言葉に注目します。新共同訳聖書では「誘惑」でした。ここをギリシャ語聖書で読むと「ペイラスモス」の動詞形でした。それをギリシャ語辞典で引くと「試み・誘惑・試練」とありました。「試み」は悪魔から見れば「誘惑」であり、イエス様から見れば「試練」となります。「誘惑」は神様から離すことであり、「試練」は神様に近づくことになります。それが同じ言葉なのです。どちらから見るかで意味が変わるのですね。また「霊」は神の霊、聖霊のことです。荒れ野は試練の場ですが、同時に真に頼るべき方が誰であるかを体験できる場所でもあります。イエス様は聖霊に導かれて荒れ野に行き、40日間断食をされ、空腹を覚えられたのでした。

 続いて、3~4節。
『すると、試みる者が近づいて来てイエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』 と書いてある。」』
 このパンは単に食べ物というだけでなく、人間の所有欲の象徴とも考えられます。空腹であるイエス様に「石がパンになるように命じたら」と言う悪魔に対して、イエス様は申命記8:3の御言葉で反論されました。神様からパンが与えられるのを待つのでなく、石をパンに変えようとするのは、神様との関わりを捨て、パンに寄り頼むことにほかなりません。石をパンに変えることのできる者がメシアなのではなく、神様に信頼して、自分の力やパンに寄り頼まずに、神様の思いに忠実に従う者がメシアなのであり、その道をイエス様は歩まれたのでした。

  続けて、5~7節。
『次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると 彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たらないようにする』 と書いてある。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」』
 神殿の屋根は「人からの評価」とも考えられます。聖なる都エルサレムの神殿の屋根から飛び降りたらどうなるでしょう。多くの人から注目を浴び、人をあっと言わせるような事を人々に見せて、救い主として自分の力を誇示する誘惑です。巧妙に聖書の御言葉(詩編91:11-12)で誘惑する悪魔に対して、イエス様も聖書の御言葉(申命記6:16)で反論されました。

 続いて、8~10節。
『さらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』 と書いてある。」』
 高い山は「傲慢心」を表しているとも考えられます。この世の繁栄や立身出世、そして自分を高めたい欲のことです。人よりも自分の方が上だと思いたい誘惑です。悪魔が「自分を拝むならこの世の繁栄をすべて与えよう」と誘惑することに対して、悪魔を退け、やはりイエス様は聖書の御言葉を引用し、「神を拝み、ただ主に仕える」決意を示されました。

  最後に11節です。
『そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが近づいて来て、イエスに仕えた。』
 ここは冒頭の1節と対応関係にあります。誘惑しようとした悪魔は離れ去り、「霊」に対応して「天使たち」が来てイエス様に仕えました。

  悪魔の誘惑に対して、イエス様はすべて聖書の御言葉で反論し、それを退けました。「神の言葉」は「試み」を「誘惑」でなく「試練」に変えることができます。「試み」は見方を変えれば、新たな飛躍への力となります。

 神様は私たちがどうすることをお望みなのでしょうか? 私たちの務めは何でしょうか? 祈祷書の教会問答の問い33(P.266)にこうあります。
33.問「私たちの務めは何ですか」
   答「全人類に対する神のご計画を理解し、神に呼び集められた民として、日々その使命を自覚し、喜びを持って自らを捧げ、悪の力と戦い、礼拝と伝道と奉仕の業を励み行うことです」
 私たちの務めは、「日々、礼拝と伝道と奉仕の業を励み行うこと」だというのです。私たちのなすべきことの第一として礼拝があげられています。

  ところで、私は、引照付き聖書を読んでいますが、10節の「『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある。」」の参照箇所は申命記6:13でした。こうあります。「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。」です。さらにそこの参照箇所は申命記10:20でした。こうあります。「あなたの神、主を畏れ、主に仕えなさい。主に付き従い、その名によって誓いなさい。」です。ほとんど同じ内容ですね。「主を畏れ主に仕えなさい」ということです。
 この「主に仕える」の「仕える」はギリシャ語では「ラトレウオ-」で、ギリシャ語辞典を見たら「(神に)仕える、礼拝する」とありました。神様に仕えるとは、すなわち神様を礼拝することなのだと思いました。
 
 私たちは一層、神様の存在を重視したいと思います。「神の言葉」は「試み」を「誘惑」でなく「試練」に変えることができます。大きな試み(試練)の中で、聖書の御言葉で反論し、サタンを退けたイエス様のように、私たちもイエス様に倣い、神様に信頼し神の言葉によって誘惑を試練に変え、日々、神様を礼拝し神様に仕えたいと願います。
 
 「イエス様に倣う」ということで、思い浮かべるのはこの本、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」です。

 この本は、黙想と祈りを通して神様にいたる道を説いています。世界中で聖書に次いで最もよく読まれた書物であると言われています。冒頭の第一巻・第一章「キリストにならって、すべてこの世のむなしいものを軽んずべきこと」にこうあります。
『私に従うものは暗(くらやみ)の中を歩まない、と主はいわれる。このキリストのことばは、もし本当に私たちが光にてらされ、あらゆる心の盲目さを免れたいと願うならば、彼の生涯の振舞とにならえと訓(おし)えるものである。それゆえキリストの生涯にふかく思いをいたすよう、私たちは心をつくして努むべきである。』
  中世の神秘思想家、トマス・ア・ケンピスは「イエス様に従う者は暗闇の世界を歩まないから、イエス様の生涯の振舞にならうように心を尽くして努めるべきだ」と言っているのです。

 最後に、本日の特祷についてお話しします。本日の特祷では「主の栄光を現すことができますように」祈ります。そのために「己に勝つ力を与え」、「肉の思いを主のみ霊に従わせ」、「常にわたしたちがその導きにこたえること」と3つのことを願い求めています。荒れ野の誘惑におけるサタンに対するイエス様の答えは、「一切を神の御言葉に従う。神の御意志に従って生きる」というものでした。十字架の道に向かうイエス様のお姿は、そのことを明確に示しています。私たちもそのような生き方に招かれています。その招き、導きに応じる、応答することが私たちに示された生き方です。

 皆さん、私たちの人生は荒れ野のようです。様々な試み(誘惑や試練)があります。そのときも主イエス様に倣い、神様に信頼し御言葉に従い、礼拝と伝道と奉仕に努めることができるよう、特に、生涯、神様を礼拝し神様に仕えていくことができるよう、祈り求めたいと思います。
  大斎節の始まりに当たり、これからイースターまでの約40日間、あらためて自分を見つめ直し、悔い改め、節制と克己に努め、イエス様を模範としてその生涯に倣い、主を拝め主に仕えて参りたいと思います。