マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『祈りのともしび「マルティン・ルターの祈り」に思う』

 毎週水曜の午後7:15からオンラインで「聖書と祈りの会」を行っています。この集いは、この4月から「聖書に聴く会」を発展的に改編しました。変更の理由については、4月10日付けのブログ『お祈りはACTS』で記した通りです。この集いでは新たな参加者も与えられ、聖書の分かち合い30分、参加者の自由祈祷10分という割合で実施しています。どなたもご自分の言葉で祈りを捧げておられますが、この頃は私を含めてマンネリというか、いつも決まった言い回しになる傾向を感じています。

 そんな折り、先日のブログで紹介したFEBCキリスト教放送局で古今東西の聖職者や信徒の祈りを紹介する番組があるので、ぜひ聴いていただきたいと思います。それが、平野克己先生(日本基督教団代田教会牧師)の「祈りのともしび~ひとつごころで御前に立つ」です。この番組は2015年10月からの再放送です。毎週水曜日放送の6番目の番組です。
 6月19日の放送は「12 むなしい器―マルティン・ルターの祈り」で、以下のURLで聴くことができます。平野先生は、この「祈り」の後、かつて牧会していた金沢における、ある高齢の女性信徒が捧げたある「祈り」から大きな啓発を受けたことを話しています。
https://www.febcjp.com/240619-2/

 この番組のテキストは、この本「祈りのともしび~2000年の信仰者の祈りに学ぶ(平野克己編)」です。

 この本の56ページにマルティン・ルターの「むなしい器」があります。

 「むなしい器」
ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。
わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。
わたしの信仰は弱いのです。どうか、強くしてください。
わたしの愛は冷え切っています。
  わたしをあたため、わたしを熱し、
  わたしの愛が隣人に届くようにしてください。
わたしには強く堅固な信仰が欠けています。
  ときとして、わたしは疑い、
  あなたをひたむきに信頼することができません。
  ああ、主よ、どうか助けてください。
  わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。
わたしはあなたのうちに、わたしがもつ宝のすべてを置いています。
  わたしは貧しく、あなたは富んでおられ、
  貧しい者に対して恵み深くあられる方。
  わたしは罪人であり、あなたは正しく、
  わたしは罪にまみれ、あなたのうちには義が満ちあふれています。
ですからわたしはあなたとともにいたいのです。
わたしはあなたからいただくばかり、
あなたに差し上げるものはなにひとつありません。アーメン

 宗教改革者ルターの、以下のような心の叫びが聞こえてくるようです。
『主よ、私の空っぽの器を満たしてください。私の信仰は弱い。私の信仰は冷え切っています。私は貧しく罪人です。しかし、イエス様は恵み深く正しい方です。私はあなたと一緒にいたいのです。あなたに差し上げられるものは何もありません。主に空っぽの器を差し出します。・・・』
 ここでは、「祈りはACTS(賛美・懺悔・感謝・祈願)である」というような形式にこだわらない、神へほとばしる感情があふれています。「嘆願」とでもいうべき祈りだと思います。
 このような素直に神へ自分の思いをぶつける必死な言葉もまた「祈り」ではないでしょうか?