マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第6主日『悲嘆を癒やすイエス様への信仰』

 本日は 聖霊降臨後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、知恵の書1:13-15・2:23-24、詩編30、コリントの信徒への手紙二8:7-15及びマルコによる福音書  5:21-43。説教では、私たちの悲嘆(痛みや苦しみ)に触れて癒やしてくださるイエス様の愛を知り、長血の女性やヤイロのようにすべてを主に委ね信頼して信仰生活を送ることができるよう祈り求めました。 
 先日帰天されたマッテア教会に教籍のあったS・Hさんの手記や岩上真歩子牧師の著作「キリストの愛に基づくグリーフケア」も活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 先週の木曜、27日に帰ろうとして郵便受けを見たら、本日発行の「北関東教区時報」がありました。4月15日に帰天されたN・Mさんが載っているか最後のページの逝去者の欄を見たら、Nさんとともに4月30日榛名聖公教会ヨハネS・H(76歳)とありました。当教会にかつて教籍があり新生病院の院長をされたS先生だろうか、でも何も連絡がなかったから同姓同名の方かもしれないと思って、次の日、小山祈りの家での聖職按手式前のリトリート(黙想会)で大山執事(当時)に尋ねたら、やはりS先生とのことでした。新生会に入ったことを聞いて、会館と牧師館の建設にかかる募金のお願いをしたらすぐ献金をしてくださったことを思い出しました。
 ヨハネS・H兄の御国での魂の平安とご遺族に慰めがありますようにお祈りいたします。受付に「はんの木」(榛名聖公教会月報)2022年10月号の巻頭言を編集しA4裏表にした物を置きました。この文章は妻のSさんがHさんが語ったことを書き留めた物です。榛名に移ってすぐに「不治の難病」と宣告されていたと知りませんでした。ぜひ、この文章をお読みください。

 さて、本日は聖霊降臨後第6主日です。本日の福音書は、マルコによる福音書5:21-43です。今お読みした聖書箇所は、聖書協会共同訳聖書の小見出しでは「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」となっています
 この箇所では二つの奇跡物語が描かれてます。
 一つは、長血で病んでいた女性がイエス様によって癒やされた奇跡、もう一つは、病気で亡くなった会堂長ヤイロの娘がイエス様によってよみがえった奇跡です。解説をしながら振り返ってみます。

 ヤイロは会堂長でした。会堂長は、礼拝を監督し、会堂の管理、運営を司る人でした。そのようなユダヤ教の重要な職のヤイロがイエス様の足下にひれ伏し、しきりに願って「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とイエス様に訴えました。イエス様は、ヤイロの願いを聞いて一緒に出かけられました。大勢の群衆も後について行きました。
  ヤイロの家に行く途中、12年間も出血が止まらない病気に苦しんでいた一人の女性が、イエス様の衣に触れました。当時、女性の出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられていました。この女性は長い間、社会から排除されていました。しかし彼女はイエス様が多くの病者を癒された噂を聞いて、「この方であれば治していただける」と思って近寄って来ました。後ろからこっそりとイエス様の衣に触れました。イエス様は彼女の信仰に心打たれて、病を癒やされました。 
 イエス様の一行は、ヤイロの家の近くにまで来ました。その時、会堂長の家から人々がやって来て、ヤイロに言いました。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と。 イエス様は、その話を近くで聞いておられました。その知らせを聞いて、取り乱し、悲しんだであろう会堂長ヤイロに、イエス様はこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。ここで「信じなさい」と訳されているギリシャ語は「ピステウオー(信じる)」の二人称・単数・命令形です。この名詞形がギリシア語では「ピスティス」で「信仰」です。「信頼」と訳すこともできます。イエス様は取り乱し悲しんでいるヤイロに「ただ信じなさい」「私を信頼しなさい」と言われたのです。癒しや救いを受け取るにはこの「ピスティス(信仰・信頼)」が重要な役割を果たしています。長血の女性の癒やしでもイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言っておられます。
 イエス様がヤイロに言われたこの「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉は、「恐れないで私を信頼しなさい、信仰を持ちなさい」ということです。イエス様はこの言葉を私たちに向けても語っておられます。私たちは様々なことに恐れを抱いて生きています。苦しみ、悲しみ、痛み、病気、そして死。私たちがその一つ一つに出会い叫び声をあげる時、「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエス様は言われるのです。 
 その後、イエス様は、弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、会堂長の家に向かわれました。会堂長の家に着くと、家族や近所の人たちが、大声で泣きわめいて騒いでいました。
 イエス様は、その様子を見て家の中に入り、人々に「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言いました。その言葉を聞いて人々は、イエス様をあざ笑いました。
 イエス様は、そこにいる人たちを外に出し、この娘の両親と3人の弟子だけを連れて、子どもが寝かされている部屋に入って行きました。
 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、アラム語で、イエス様が日常の生活で使っておられる言葉でした。「タリタ」は「娘よ」、「クム」は「起きなさい」という意味です。アラム語のまま伝えられたのは、イエス様の声の響きが聞いている人に強い印象を残したからと考えられます。なお、この言葉は新共同訳では「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味だと訳されていました。これはギリシャ語原文の直訳です。マルコはアラム語にはない「わたしはあなたに言う」を入れています。それはマルコが「私とあなた」という全人格的な関係を尊重するイエス様の姿勢を強調したかったからだと考えます。
 すると、ヤイロの娘は、すぐに起き上がって歩き出しました。奇跡が起こったのです。この少女はもう12歳になっていたからと、わざわざマルコは記しています。それは12歳の少女が12歳の能力を発揮し始めた、ということです。キリストに救われたとき、彼女は起き上がり、本来の12歳の少女になったのです。人は救い主に出会って、癒され、本来のあるべき自分を生き始めるのです。
 本日の箇所の最後では、イエス様は、この奇跡の出来事を「だれにも知らせてはならない」と厳しくお命じになり、「この娘に何か食べ物を与えなさい」と言われました。これは奇跡にばかり目が行ってしまわないようにという戒めと、私たちに真に生きるための霊的な食べ物(神様の御言葉)が必要なことを示しているようにも思います。
 
 さて、神様がこの箇所を通して私たちに伝えようとしているのはどんなことでしょうか? 私たちに求めておられるのはどのようなことでしょうか? 
 私は、それは、長血の女性やヤイロの娘を癒したものが何だったかということと関連していると考えます。12年間出血が止まらない女性は「この方であれば治していただける」と思ってイエス様の衣に触れました。また、ヤイロは娘を助けたい一心でイエス様にひれ伏して癒しを願いました。「娘はもう亡くなった」と告げられましたが、イエス様の「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉に従い、イエス様にすべてを委ねました。長血の女性やヤイロのイエス様への全幅の「信頼・信仰(ピスティス)」がイエス様の行動を促し、長血の女性やヤイロの娘を癒したのだと思います。
 私たちに対しても、神様は、この長血の女性やヤイロのように、イエス様にすべてを委ね信じることを求めておられるように思います。

 今日は1冊、本を持って来ました。ホーリネス教団の牧師で東京都公立学校スクールカウンセラーもされている岩上真歩子さんの「キリストの愛に基づくグリーフケア~エマオの途上を主イエスと歩む」です。

グリーフケア」とは、喪失による悲嘆(グリーフ)の中にある人をケアすることです。この本では「聖書は神様による人へのグリーフケアに満ちている」と言います(P.22)。本日の福音書箇所に関しても「イエス様は長血の女性やヤイロの娘に対して全人格的なグリーフケアをされた」と記されています(P.31・32)。さらにこうあります。
「イエス様のグリーフケアは、一人一人の置かれている立場や状況を見極めながら、一人一人が健やかに生きることを目指しています。つまり、病気や問題の解決ではなく、その人が全人格的に回復することです(P.33)」と。
 イエス様こそ私たち一人一人の状況を理解して、それぞれのグリーフ(悲嘆)を癒やしてくださるお方です。イエス様は私たちの祈りに応えて、私たちの痛みや苦しみに触れて、寄り添ってケアしてくださるです。  
 今日も、主の慈しみは絶えることなく、私たち一人一人に注がれています。そして、私たちがなすべきことはすべてを主に委ねることです。

 そのことで、ある文章を思い浮かべます。それはS・H先生の「はんの木」の最後の文章です。こうあります。 
「いと小さき者として天の国の門が開かれる日を待ち望みながら、全てを神に委ねてこの地で静かに祈りの日々を過ごしたいと思います。感謝。」
 S先生の不治の難病は身体的には治りませんでしたが、イエス様によって魂は癒やされ、全人格的に回復され主の身許に召されたのだと考えます。それはS先生のすべてを神に委ねる信仰によるのだと思わされました。

 皆さん、今日、イエス様は私たちにも言われています。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。イエス様は私たち一人一人の悲嘆(痛みや苦しみ)に触って癒やしてくださいます。私たちも、本日の福音書箇所の長血の女性やヤイロの信仰にならい、天地万物を治めておられる神様のみ心に従い、すべてを主に委ねて、イエス様を心から信頼して信仰生活を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン