マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第2主日『安息日の本来の意味』

 本日は 聖霊降臨後第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。祭色が緑になりました。
 本日の聖書箇所は、申命記5:12-15、詩編81:1-10、コリントの信徒への手紙二4:5-12及びマルコによる福音書2:23-3:6。説教では、安息日は人を生かそうとする神様の思いに出会うためにあることを知り、いつも共にいてくださる「安息日の主」であるイエス様に感謝と賛美の祈りを捧げました。 

 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は「聖霊降臨後第2主日」です。祭色が緑になりました。今日は、私は緑色のチャジブルを着ています。緑は草木の色、自然の色であり、神の恵みと成長、希望、平和を表すと言われます。Green(緑)からGrowth(成長)という言葉が生まれています。これから降臨節第1主日(今年は12月1日)で紫に変わるまで、長い緑の期節が続きます。

 ところで、今年度、私は名刺を新しくしました。まず「日本聖公会北関東教区司祭 福田弘二」と職位を大きく示し、その下に職務として、前橋聖マッテ教会の牧師、高崎オーガスチン教会と新町聖マルコ教会の管理牧師、そして、玉村の認定こども園「マーガレット幼稚園」のチャプレンと表記しました。それは自己紹介として自分の仕事を他の人にお知らせすると共に、私が聖務としてなすべきことを自覚するためでもありました。
 マーガレット幼稚園では理事として理事会に出たり園長に園運営の助言をしたり、毎月の誕生会に出席し、礼拝やお話をしています。誕生会はホールに集まって行うのですが、園児が1歳児から6歳児まで約80名おりますので、手遊び歌をしたり絵本を読んだりして興味・関心を引きつけてお話ししています。       
 先日、「せかいのはじまり」という絵本を読んで、子供たちに天地創造の話をしました。そこで、「神様は天と地、光、空、海、陸、月や星、生き物、そして、最後に人間を、6日間でお造りになり、7日目にお休みになりました」と話しました。すると、「神様も休むんだ」と言った子がいました。私は「そうです。そのお休みが日曜日です」と話しましたが、それこそが、本日の旧約聖書福音書のテーマである「安息日」であります。

 私は2018年にイスラエルを旅しましたが、そこのホテルに不思議なエレベーターがありました。それは2基が一緒にあって、1基は普通のエレベーターですが、その隣の1基のエレベーターは金曜の夕方から土曜の夕方は各階ごとに止まる、言い換えれば各駅停車になる物でした。どうしてだか分かりますか? それは安息日にエレベーターのボタンを押す行為が労働と見なされるため、ボタンを押さなくでも乗ったり降りたりすることができるように、各階に止まるエレベーターを用意してあるとのことでした。21世紀の今も、聖地では安息日規定は生きているのです。

 さて、本日の福音書、マルコによる福音書2:23-3:6では、安息日規定を巡って2つの記事(段落)が記されています。前半のイエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことでファリサイ派の人々とイエス様との間で問答があった段落と、後半の安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという段落です。私たちにとっては何でもない出来事のように思えますが、ここの最後の3:6には「どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた」とあるように深刻な対立に発展しています。本日はこの箇所を通して、安息日の本来の意味について考えたいと思います。

 まず、本日の前半、2:23-28を見て参ります。2:23によると、ある安息日にイエス様たちが麦畑を通って行かれた時、弟子たちが麦の穂を摘み始めたと言います。麦の穂を食べること自体は律法では許されていました。申命記23:26には「隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない」とある通りです。では、何が問題なのでしょうか? それはその日が安息日であったからです。安息日の戒めは出エジプト記20章と申命記5章に記されています。今回は本日の旧約聖書申命記が取り上がられていますので、そこを見てみたいと思います。まず5章12節で「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい。」とあり、さらに14節で「七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛やろばなどのすべての家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。」とあり、安息日には家族も奴隷も家畜を休ませるように命じます。そして、15節で「あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。」とあり、安息日の根拠が出エジプトという救い・解放の出来事にあり、その神の恵みを思い起こす日が安息日であると記しています。

 では、ファリサイ派の人々は「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」とイエス様の弟子たちの行為を問題にしたのでしょうか? それは安息日には労働することが禁じられていたのですが、ファリサイ派の人々は麦の穂を摘む行為を禁じられている収穫という労働の行為と見なしたからです。ファリサイ派が大事にしたミシュナー(成文律法を現実社会に適合させるために行われた解釈の収集)によれば、刈り入れは安息日に禁じられた39の仕事の一つに数えられていたのでした。
「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」というファリサイ派の人々の問いかけに対して、イエス様は、サムエル記上21:2-7に記された、ダビデが空腹の中にあった家臣を救うために祭司から供え物のパンを授かった話をされ、人の命を救うために律法の規定を緩やかにすることも有り得ると話し、こう言われました。マルコ2:27です。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」と。ここの「安息日は人のためにある」は「安息日は人のためにできた(定められた)。」とも訳せます。イエス様は、安息日は人のために定められたこと、人を生かすために設けられたと語り、安息日のために人があるのではないと、教えられました。イエス様のこの言葉は安息日そのものを否定したのではなく、安息日を大事にしようと力むあまり、細則に目を奪われ、本来の意味を忘れてしまったファリサイ派及びファリサイ派的な行動に異議を唱えているのです。
 その上で28節で「だから人の子は安息日の主でもある」と言われました。この言葉を述べることにより、マルコ福音書2章の最初に問題にされた、体の麻痺した人の癒やしから、罪人との食事、断食についての問答、そして最後の安息日規定の論議まで、論争されたすべての課題に対して、イエス様こそが主であることが示されたのです。 

 この安息日の規定を巡る問題は、次の3:1-6で先鋭化します。その出来事は、ある安息日、会堂で起こりました。会堂には手の萎えた人がいて、イエス様がどうするかを人々は注目していました。その気配を感じイエス様は手の萎えた人を会堂の真ん中に立たせ、その手を癒されました。その際、イエス様は人々にこう言われました。4節です。「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。イエス様が問いかけているのは、この人が助けられることこそ神様が望んでおられることではないか、安息日は人が救われる日ではないのか、ということです。安息日に起こることは、悲しみや屈辱を抱え、尊厳を顧みられず、弱く小さくされた一人が会堂の真ん中で、神様の前に立つことです。安息日の趣旨は、「七日目はどのような仕事もしてはならない」という神の戒めの意義を考えることであって、細則を厳格に守り、それを振りかざして他人を批判することにはありません。イエス様にとっては、他人の命に配慮する隣人愛は安息日に関する細則を凌駕するのであり、これこそ安息日の目的であることを、安息日に手の萎えた人を癒やすことで示したのです。

 申命記5:12-14にあるように、神様は、6日かかって天地を創造され、7日目に休まれました。それは、人間をはじめ、すべてのものを造り、存在させておられる神様に、心を向け、神様に感謝するために、この日を特別の日として、「聖なる日(Holy day = Holiday)」とされたのです。それは、特に心を集中して、神様に向かうためにあるのです。
 「安息日は、人のために定められたのです。人が安息日のためにあるのではない」のです。
 ファリサイ派の人々は安息日規定にのみとらわれてしまい、安息日が、神様と向き合う日であることを見落としてしまいました。安息日は人を生かそうとする神様の思いに出会うためにある。それを教えるイエス様のほかに、「安息日の主」はいないことを、本日の聖書は教えています。 

 皆さん、私たちは、旧約聖書の時代のようには、安息日を守っていません。安息日よりも大きな豊かな意味が与えられた「主の日」、主日を守っています。
 細かい律法を守ろうとしても守ることができない私たちの弱さのために、十字架につけられ、私たちのために祝福を与え続け、いつも共にいてくださる「安息日の主」であるイエス様に、感謝と賛美の祈りを捧げたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン