マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第20主日 聖餐式 『神に寄り頼む幸せ』

 本日は聖霊降臨後第20主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
テモテへの手紙二 4:6-8、16-18
 聖書箇所は、テモテへの手紙二 4:6-8、16-18 とルカによる福音書18 :9-14。「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」から、イエスは自分に寄り頼むファリサイ派の人の祈りでなく神に寄り頼む徴税人の祈りを義とされ、その態度こそが幸せであることを知り、謙遜に生きることができるよう祈り求めました。「神に寄り頼む人」として思い浮かぶリジューのテレーズの言葉にも言及しました。

   神に寄り頼む幸せ

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第20主日、新町としては10月最後の礼拝で、諸聖徒日に一番近い礼拝のある主日です。
 諸聖徒日は11月1日、今年は来週の火曜です。その前日10月31日がハロウィーンです。ハロウィーンの意味を知っていますか?“ハロウィーン”はAll Hallows' Day(諸聖徒日)のeve(前夜祭)⇒Halloweenです。諸聖徒日(別の言い方ではAll Saints' Day)は、すべての聖人や天国で神のもとにいるすべての信徒を記念する祝日です。教会では、諸聖徒日に一番近い主日に墓地礼拝をしたり、逝去された信徒の名前を挙げて祈ったりします。新町の教会では、「ウクライナのための祈り」に続いて「逝去者のため」の祈りを献げ、当教会に関わる逝去者のお名前を拝読しました。
 なお、諸聖徒日に続いて記念されるのが11月2日の諸魂日(All Souls' Day)です。こちらは、この世を去ったすべての人の魂のために祈る日です。

 さて、今日の福音書は、ルカ18章9節以下の、エルサレムへの旅の途上でイエス様が語られたたとえ話です。ここでは、自己を正しい者とし他人を見下しているファリサイ派の人と、へりくだる徴税人のことが語られています。ここは、この前の箇所(「やもめと裁判官のたとえ」)に続き、祈りについての教えが継続しています。また、使徒書はテモテへの手紙二 4:6以下で、ファリサイ派の人の祈りの発想とは全く違う、パウロが亡くなる前に弟子テモテに宛てた祈りの言葉が選ばれています。

 福音書を中心に考えます。まず、この「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」を解説を入れて振り返ります。
 イエス様は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、一つのたとえ話をされました。
 祈るために、二人の人が、神殿にやって来ました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。
 ファリサイ派とは、当時のユダヤ教の教師で、子どもの頃から神様から与えられた律法、掟についてよく学び、これを守ることに力を尽くし、宗教的な儀式や行事、言い伝えをよく守っている、だから自分たちは正しい、神様によって救われて当然だと、自負している人たちでした。当時の宗教界では、トップに位置していました。
 その中の一人が、神殿で、立ち上がって、心の中でこのように祈りました。
「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではありません。毎日正しいことを思い、正しい生活をしています」と。
 横を見ると、徴税人がいます。この徴税人とは、取税人とも言います。人々から税金を取り立てることを職業にしている人でした。当時のユダヤ人は、ローマ帝国に支配され、ユダヤの王の支配もきびしく、貧しい人々からも税金を取り立てていました。徴税人はその手先になって税金を取り立て、人々から嫌われていました。貧しい者から利子を取ってはいけない、税金を取り立ててはいけないという掟に反する仕事をしていましたから、徴税人は「罪人」というレッテルを貼られ、人々から毛嫌いされていました。彼らは、当時の宗教界では、最も下に位置していました。
 祈っていたファリサイ派の人は、この徴税人を見て、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈り、さらに「私は週に二度断食し、全収入の10分の1を献金として献げています」と祈りました。律法で決められている断食は年1度、農産物には10分の1の献金は適用されていません。つまり、このファリサイ派の人は律法の規定以上のことをしていると強調しています。
 一方、この徴税人は、神殿の遠くに立って、目を天に上げようともしないで、胸を打ちながら祈っていました。「神様、罪人の私を憐れんでください。」と。この言葉の中には、「私には、良い所は少しもありません。正しいことは何も出来ません。わたしは「罪人」です。神様、このような罪人である私を憐れんでください」という気持ちを込めて祈っています。
 なお、私たちは聖餐式の最初や主の祈りの前に、「主よ、憐れみをお与えください。」と唱えますが、私たちの祈りの基本は、この謙遜な祈りに凝縮されていると言えます。 
 イエス様は、このような、ファリサイ派の人の祈りと、徴税人の祈りを例にあげて、この二人の内、どちらの祈りが、神様に届いているか、どちらが受け入れられていると思うかと問われました。
 イエス様は言われました。「神様から義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。」そして、「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。
 この「義とされて」という言葉は原語では「義と認める、正しいと宣言する」という意味があります。それは元々は、罪と宣言されるの反対の言葉で、「正しいとされる、無罪とされる」という裁判用語、法廷用語からきています。誰が裁くのでしょうか? それは神様です。このたとえの二人は、神様に祈りを捧げました。その神様が、義とされる、正しいとされる、神様に受け入れられたのは、徴税人の祈りだと、イエス様は断定されたのです。
 私たちが、神様を、イエス様を信じて生きる信仰生活を送る上で、最も大切にしなければならない物事を判断する基準は、自分の思いや人々の思惑ではなく、神様がどのように判定されるかという視点だということであります。

 神様が、最も嫌われる人間の態度は、どのようなものでしょうか? それは今日の福音書の箇所で語られた対象である「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下」(9節)すことではないでしょうか?
 なお、この「うぬぼれて」と訳されているギリシャ語原語を直訳すると「信頼して」とか「確信して」となります。「自分は正しい人間だとうぬぼれて」は直訳すると「正しい人間だと自分を信頼して」ということです。これは、自らの正しさを確信し「自分を信頼し自分を頼る」という姿勢・態度です。それはここでのファリサイ派の人の祈りの姿勢・態度であり、このような態度を神様は嫌っておられると思います。しかし、私たちは、往々にしてこのファリサイ派の人のような祈りをしてしまいがちですので、気を付けなくてはなりません。

 ところで、私たちは人生で何を求めているでしょうか? それは「幸せ」だと思います。では、どのような人が「幸せ」なのでしょうか?
 先ほど交唱した今日の詩編84にこうあります。4節~6節、10節~12節です。
4 幸せな人、あなたの家を住まいとし∥ 絶えずあなたをたたえる人
5 幸せな人∥ あなたによって奮い立ち、巡礼を志す人
6 かれた谷を通るとき、彼らはそこを泉とし∥ 秋の雨の祝福を受ける 
10 あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる∥ あなたに逆らう者の幕屋にとどまるより、あなたの家の門守としてください
11 神よ、あなたは光り輝く盾。恵みと栄えを与え∥ とがなく歩む者に幸せを拒まれない
12 神よ、万軍の主よ∥ あなたに寄り頼む人は幸せ
 神様の家を自分の住まいとし、神様を称える人。神様を基礎として、その存在によって生かされ、み跡を歩む人。そのような人は枯れた谷を通るとき、そこが泉になり、秋の雨の祝福を受けることができます。幸せは、神様の教えに従うことで絶えず祝福されている状態です。神様の庭で過ごす一日は千日にもまさり、私たちはそこの門番になりたいと願います。神様は光り輝く盾であり、恵みと栄えを与えてくださいます。自分でなく神様に寄り頼む人。そのような人こそが幸せなのだ、とこの詩編はうたっています。

 私が「神様に寄り頼む人」として思い浮かぶ人がいます。それは19世紀末に24歳の若さで帰天された聖人、カルメル会の修道女、リジューのテレーズです。この本「テレーズの約束」の中の「思い出」と題された文章にこういう言葉があります。

「自分のするどんな業(わざ)にも、どんなことにおいても、自分に頼ってはなりません。けれども、この貧しさは、私にとって真の光、真の恵みです。私にとって真の宝であり、力でした。神様だけに頼り、まったく貧しい者である時、深い安らぎを体験できるのです。」
 テレーズは、「自分に頼らず神様に寄り頼むことは真の恵みであり、神様に寄り頼む人は深い安らぎを得る」と言っています。テレーズのように、自分でなく神様に寄り頼む人でありたいと思います。
 
 さらに、今日の使徒書で、パウロは亡くなる前にこう言っています。「私自身は、すでにいけにえとして献げられており、世を去るべき時が来ています。」と。
 パウロは自分の死が間近であることを悟っています。「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今や、義の冠を私が待っているばかりです。」と言っています。この言葉は、先ほどのファリサイ派の人の祈りとは全く違います。自分を誇っているのでは全くない祈りです。走るべき道を走り終えたのを、パウロは恵みだと言っています。自分の力でやったと言っているのではありません。自分の生涯を振り返ったら、様々な困難や苦難で倒れそうにもなりながら、神の恵みに支えられて、与えられた道を走りとおした。「義の冠」というのは感謝の冠だと思います。

 皆さん、イエス様はファリサイ派の人の自分に寄り頼む祈りでなく、徴税人の『罪人の私を憐れんでください。』という神様に寄り頼む祈りを、義と、正しいとされました。自分でなく神様に寄り頼む人、そのような人こそが幸せな人生を送ることができるのです。私たちはそのような人になりたいと願います。
「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と語られたイエス様の言葉を心に刻み、日々の信仰生活を謙遜に送っていきたいと思います。そうできるよう祈り求めて参りたいと思います。