マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『映画「最後のランナー」に思う』

 前々回の教会問答勉強会で映画「炎のランナー」が話題になりました。それは十戒の第四戒「あなたは、安息日を覚えて、これを聖とせよ。」に関わってでした。「炎のランナー」の主人公のオリンピック選手、エリック・リデルがパリオリンピック(1924年)の200m決勝戦が日曜日(安息日)だったためこの競技を欠場したことを思い浮かべました(エリック・リデルは日曜でない400m決勝戦に出場して優勝しました)。その時、教会問答勉強会に参加された方から「炎のランナー」の続編があることを教えてもらいました。それが映画「最後のランナー」で、早速DVDを購入し、鑑賞しました。

  映画「最後のランナー」は「炎のランナー」を引き継いでいるところもありますが、違っているところもありました。あるいは発展したといえるかもしれませんが・・・。
最後のランナー」の予告編を下のURLで観ることができます。       
https://www.youtube.com/watch?v=yCcXS8myQJ0

最後のランナー(原題:On Wings of Eagles)」は2016年製作の中国・香港・アメリカ合作の映画で、オリンピック後に宣教師として生きたリデルの中国での人生を描いた作品です。主人公リデル役を「イングリッシュ・ペイシェント」「恋におちたシェイクスピア」「エリザベス」のジョセフ・ファインズが演じています。
 あらすじは以下のようです。

『1941年の真珠湾攻撃による日米開戦、日本とリデルの母国イギリスも戦争状態になり、日本軍はリデルら欧米人を収容所に拘束する。収容所長クラタは元オリンピックランナーのリデルに興味を持ち、リデルと一対一の収容所内での短距離レースを持ちかける。日本軍はリデルに食事を与えてレースのために力をつけるように要求するが、リデルはその食事を収容所の子供たちに与えてしまう。レース当日、リードするリデルだが、突然倒れて負ける。食事を子供に与えていたことが分かった日本軍はリデルを独房に閉じ込める懲罰を与える。独房で苦しむリデルにリデルの友人、ニウは食事を持っていく。その後、リデルは独房から解放され、収容所は歓喜に包まれた。
 収容所の状況は悪化し、ニウとリデルの友人の少年、シャオシートウは一人の収容者を助けるため排泄物を入れる桶に収容者をいれて外に連れて行った。日本軍は逃走者をさがすため、他の収容者とニウを拷問する。
 敗北する日本軍に伴い、収容所の状況も過酷になり、収容者たちは病気になる。リデルは病気の収容者を助けるために、収容所長にレースを申し出る。レースにリデルが勝てば薬を外から持ってこられるという条件をつける。収容所長は「日曜日にレースをする」と伝えた。レース当日、裸足のリデルは収容所長に勝つ。
 鉄条網を乗り越え薬を運ぶシャオシートウ、収容所は薬の到着を待つ。鉄条網の電気ショックは切られているが、収容所長はレースに負けた怒りから、電気ショックをオンにし、シャオシートウを殺害する。リデルはシャオシートウに祈りを捧げる。日本軍はリデルを釈放する決定をするが、リデルは代わりに妊娠中の女性収容者を解放するように求め日本軍も応じる。
 1944年のクリスマスを迎えるが、リデルの健康状態は悪化する。1945年にリデルは死去し、雪の中、収容者たちは葬儀を行った。1945年8月に戦争は終結し、収容者たちは歓喜する。映画のラストはニウの回想シーン、リデルとシャオシートウと走るニウ、リデルから多くの贈り物があったが、一番大きなものは希望であったと言う。』

 このようなあらすじでした。「炎のランナー」では日曜日(安息日)であることを理由に競技をボイコットしたリデルでしたが、「最後のランナー」では病人を救うために日曜日(安息日)であっても競技を行いました。それは、イエス様が安息日に病人を癒したことに通じるものだと思います。

最後のランナー」の全編、ことにリデルが思い悩むシーンで流れる聖歌・讃美歌があります。それは讃美歌 298番「安かれ、わが心よ」で、シベリウス交響詩フィンランディア』の曲をつけたものです。映画の字幕で示された歌詞はこうです。
『安かれ、わが心よ 主イエスは ともにいます
 痛みも苦しみをも おおしく 忍び耐えよ 
 主イエスの ともにませば 耐ええぬ 悩みはなし』
 リデルが宣教師として生きることができたのは、この讃美歌の歌詞で表されるキリスト教を信じ証したからだと思います。「主イエス様が共にいるから、痛み・悲しみに耐えることができる」というのです。昨日の「教会問答勉強会」でも示されたように、「愛する」ことがキリスト教会の存在を規定するものであり、それは「一緒に」「共に」によって現されるのです。キリスト者アイデンティティは、主イエス様が共にいてくださることに裏付けられています。
 私たちが人生で多くの苦しみに会うときも「私が共にいるから平安でありなさい」とイエス様がおっしゃっておられます。そのことを忘れず日々を過ごしたいと思います。
 映画「最後のランナー」を観て、このように思い巡らしました。