マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第 21主日 聖餐式『神のものを神に返す生き方』

 本日は聖霊降臨後第 21主日。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式に預かりました。聖書箇所は、イザヤ書45:1-7、詩編96:1-9とマタイによる福音書22:15-22。説教では、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と言ったイエス様の真意を知り、主なる神に仕え賜物を主に返す「神のものを神に返す生き方」ができるよう祈り求めました。
 10月16日に発表されたカンタベリー大主教の「聖地の人々のための祈り」や退堂聖歌で歌った聖歌542「心の緒琴に」の内容等についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 連日のパレスチナ自治区ハマスイスラエル軍との戦闘の報道に胸を痛めております。
 特にガザ地区の病院が空爆によって大きな被害を受け、500名近い死者が出たというニュースは大きな衝撃を与えました。この病院はアリ・アハル・アラブ病院と言って、中東聖公会エルサレム教区が運営する病院です。この爆発がイスラエル軍によるものか、イスラム聖戦のものか様々に報道されていますが、問題の本質はこの病院に避難していた非戦闘員(多くは子どもと女性)が大勢死傷したということだと思います。
 このことを重要視したカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー大主教イスラエルを訪問することを決め、一昨日、10月20日エルサレムに到着しました。
 ところで、10月16日にカンタベリー大主教「聖地の人々のための祈り」が発表されました。

 まだ正式な翻訳は出ていませんので、私が訳したもの(私訳)を今回は特祷の後に献げました。私はこの「聖地の人々のための祈り」を「朝の祈り」でも献げていますが、皆さんも普段のお祈りに加えていただければと思います。

 さて、本日の福音書はマタイによる福音書第22章15節から22節です。
 これまで、イエス様は「祭司長や民の長老たち」、つまりユダヤ人の宗教的指導者たちを、非情な農夫や婚礼の祝宴への招待をないがしろにする客にたとえて話しました。本日の箇所では、そのことに憤慨したファリサイ派の人々が、ヘロデ党の人々と一緒に「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」(17節)という質問をしてイエス様を陥れようとしました。それは自らを神格化するローマ皇帝への納税を肯定すれば、神を裏切りイエス様を信頼する人々を失望させることになり、否定すれば皇帝への反逆者として告発されるという巧妙なものでした。前者はファリサイ派の人々、後者はヘロデ党の人々が狙っていたものでした。イエス様は納税用のローマのデナリオン銀貨を取り上げ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(21節)と答えました。ファリサイ派の人々はその答えに驚き、立ち去ったのでした。 

 今日はファリサイ派の人々にイエス様がおっしゃた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉にスポットをあてて考えたいと思います。この言葉はかつての口語訳では「カイゼルのものはカイゼルに、神のものは神に返しなさい」であり、文語訳も同様に「カイゼル」というドイツ語を使っていましたので、こちらの方が馴染みのある方も多いかもしれません。この「皇帝」は原語のギリシャ語では「カイサル」、英語の聖書(NIV、NRSV)ではCaesarまたはEmperorでした。その意味は「ローマ帝国元首、いわゆる皇帝」です。

 本日の福音書、ことに「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉で、イエス様が私たちに示し、求めておられるのはどのようなことでしょうか?   
 それについては、本日の旧約聖書イザヤ書45章1節-7節が参考になります。
 5節にこうあります。
「私は主、ほかにはいない。私のほかに神はいない。私はあなたに力を授けたが あなたは私であると分からなかった。」
 神様こそが主であり、唯一であること、そして私たちは気づいていませんが、神様は私たちに力を与えてくださるお方であることが述べられています。
 7節はこうです。
「光を造り、闇を創造し 平和を造り、災いを創造する者。私は主、これらすべてを造る者である。」
 神様は光も闇も、平和も災いも創造される方で、その方が私たちの主であること、つまり神様は全能の創造主であることが示されています。
 本日の旧約聖書では、唯一の全能である神様はすべてを創造する力ある存在であること、そしてその方が私たちの主人であることが強調されています。

 本日の福音書でも、ファリサイ派の「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。」という質問に対して、イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答え、神様の存在を強調しています。
 この答えの前半の「皇帝のものは皇帝に」の言葉によって、イエス様は、ファリサイ派の人たちは日頃からローマへの納税のための貨幣を持っており、すでにローマに納税しているのだから、納税を問うのは彼らの悪意の表れであることを明らかにしています。
  そして、この言葉の後半「神のものは神に返しなさい」にイエス様の主張の要点があります。生きとし生きる者はすべて神様によって創造され、どれも神様のものであり、神様に従うことは他のどんな命令をも超えるものなのです。イエス様はこの言葉でファリサイ派等、敵対者たちは「神様こそがすべての人の主人である」ことを忘れているという事実を明らかにしていると言えます。
 本日の箇所でイエス様が私たちに示しているのは「神様こそが私たちの主人である」ことと考えます。そして、イエス様が私たちに求めておられるは「神のものを神に返す生き方」であると思います。それはどんな生き方でしょうか?
 私たちは聖餐式の奉献で、献金をした後、「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主に献げたのです アーメン」と唱えています(祈祷書P.172)。それは、すべてのものを主からの賜物ととらえ、与えられたそれらを主に献げた、言い換えれば、神様から借りていたものを本来の持ち主である主なる神様に返したことを宣言していると言えます。お借りしている賜物を持ち主である神様にお返しすること、それが「神のものを神に返す生き方」ではないでしょうか?

 では、「神のものを神に返す生き方」とは具体的にはどのようなことでしょうか?
それは別の言葉で言えば「恩返し」ということだと思います。「恩返し」で、すぐに思い浮かぶのは「親孝行」です。子どもの頃からお世話になった親に「恩返し」として「親孝行」したいと思うのは自然なことです。しかし、「親孝行、したいときに親はなし」ということわざがあるように、恩返しをしようとした対象が既にこの世にいないということがあると思います。私も既に実の両親、そして義理の両親も既に亡くなっています。では誰に「恩返し」をするのでしょうか? それは自分の周りの人や世界の支援を必要としている人だと思います。神様にお返しするということは、それらの人々に日々の私たちの小さな活動や働きを賛美と感謝の心で行うことだと思います。周りの人々に対して神様の慈しみの心を分かち合う生き方をしていくということです。
 与えられた賜物(ご恩)をそれを与えた方に返す、それが「神のものを神に返す生き方」ではないでしょうか? さらにいえば、周りの人や世界の支援を必要としている人、それらの人々に私たちの小さな活動や働きを賛美と感謝の心で果たしていくこと、これこそ私たちキリスト者がなすべきことではないでしょうか?

  冒頭、お話しした、200万人を超すガザ地区の住民は、毎日のように繰り返される空爆や軍事侵攻への懸念で心休む時がありません。そして、今、ガザの人々は、水、食料、医薬品、避難場所を使い果たしています。この人々に対しても私たちは今、「神のものを神に返す」ことが求められていると思います。これから始まる支援のための献金をすることがまず思い浮かびます(これまでも婦人会の感謝箱献金で聖地の障害者施設を献金先の一つとしたりガザ地区でも活動している国境なき医師団献金したりしてきました)が、パレスチナ問題について理解を深めることや、日々「聖地の人々のための祈り」を捧げることも「神のものを神に返すこと」の一つであると考えます。

 最後に、本日の退堂聖歌で歌う聖歌542「心の緒琴に」をご覧ください。1節にこうあります。
「心の緒琴に み歌のかよえば 調べに声合わせ いざ ほめ歌わん
 平和よ くしき平和よ 愛なる み神の くしき平和よ」
「緒琴」の「緒(お)」とは「糸、紐など、長くして物を結ぶもの」です。そこから「楽器や弓に張る糸」、さらに「心をつなぐもの」という意味でも使われるようです。「緒琴」は「琴線」と言えるかもしれません。「心の琴線」です。
 この歌詞はこういう意味と考えます。。
「心をつなぐ竪琴に 天使の歌が響いてくると 自然にそれが鳴り始める。その調べに合わせて、さあ、神を賛美しよう、愛の神から来る妙なる平和を。」
その平和は4節ではっきりと示されています。こうあります。
「み旨によりそい 主と歩む道は 愛に満ちあふるる 永遠(とわ)なる平和」
主のみ旨に従い主と歩む人生、それこそが愛にあふれる永遠の平和です。これこそ「神のものを神に返す生き方」ではないでしょうか?

 皆さん、イエス様がファリサイ派の人々におっしゃった「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、私たちにも向けられています。
 主なる神様に仕え、与えられた賜物(ご恩)を主に返す、つまり「神様への恩返し」こそ、私たちがなすべき「神のものを神に返す生き方」であると考えます。私たちが日々の生活の中で、そう実践できるよう祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン