マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活日 聖餐式『生活の中で復活の主に出会う』

 本日は復活日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書25:6-9、詩編118:1-2・14-24、使徒言行録10:34-43、マルコによる福音書16:1-8。説教では、「空の墓」の先を見る信仰の目を養い、主イエス様のみ跡に従い、日々の生活の中で復活の主に出会い、復活の証人として力強く歩んでいくことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関係した映画「ジーザス・クライスト=スーパースター」にも言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、主のご復活おめでとうございます。
 本日は復活日、イースターです。新しいチャーチオルガンでお祝いできることをうれしく思います。また、日本では年度の最後の日で、明日からは新しい年度が始まります。私は4月からはこれまでの前橋の牧師、新町の管理牧師と玉村の幼稚園のチャプレンに加えて、高崎の教会の管理牧師も任されました。定年最後の1年でもあり、主のみ守りと導きにより、できる限りの宣教・牧会に努めたいと思っております。Zoomによる「聖書と祈りの会」や会館での「キリスト教文化入門」等を宣教の器として用いて、新町や高崎との連携も図りたいと考えています。
 
  さて、本日の福音書箇所についてですが、今年はB年でマルコによる福音書の16章を朗読しました。こんなお話でした。
『イエス様が金曜日に十字架につけられて亡くなり、墓に葬られ、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメがイエス様の遺体をもっと丁寧に処理しようと思い、日曜日の朝早く墓に行きました。当時は大きな横穴式のお墓で大きな石で蓋をしていたのですが、墓の入口の石が取り除かれ開いていて、イエス様の体がなく空(から)でした。そこに天使と思われる白い衣を着た若者がいて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」ということを告げました。それは驚きのことだったと思われます。さらにこう言いました。「御覧なさい。お納めした場所である。」と。空の墓を見せて、そして「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」というメッセージを告げました。この墓が空であるという不思議な出来事に触れ、天使の話を聞いて、この女性たちはただただ驚きの中にありました。』
  この箇所はギリシャ語原文では印象的な受動態の文章が2つありました。それは4節の墓の入り口の「大きな石がすでに転がしてあった」と6節の若者の言葉「あの方は復活なさって」です。どちらも誰がしたかは明確に示していませんが、神が行ったことを暗示している「神的受動態」と考えられます。英語の聖書(NRSV)では、前者は「had already been rolled back」、後者は「He has been raised」とありました。墓の石を転がしたのもイエス様を復活させたのも父なる神であることが分かります。先ほど福音書前に歌った聖歌169では、2節で「墓をふさぐ石も 脇へ転がされ」、4節で「主は復活なされた われらは救われた」と、はっきり受動態で示されていました。

 今は、エルサレムの旧市街地にあるゴルゴタの丘とイエス様のお墓に巨大な聖墳墓教会という教会が立っていて、お納めしていた所がその中にあり、巡礼地になっています。私は6年前にイスラエル聖地旅行に行きましたが、旅の終わりにそこを訪ねました。ものすごい人でお墓の内部に入るのに3時間かかるというので入るのを諦めました。その時「ここには何もない、イエス様はここにはおられないのだからまあ入らなくてもいいかな」と思って、お墓を外から見て「入ることができなくても仕方がない」と自分に納得させたことを思い出しました。    
 イエス様はここにはおられない。ではどこにいるのかといったら、私たちと共におられるのです。お墓を空にして、復活した主が、私たちと共におられる。だから私たちも古い自分とか罪とか、嫌な過去とかを全て空にして、復活した主と共に新たな人生を歩んでいきたいと思うのです。

 さらに言えば、最初、女性たちは墓でイエス様に会えると思っていました。しかし、墓は空でそこではイエス様に会うことはできませんでした。天使は女性たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と伝えました。言葉を換えれば「墓はイエス様のいる場ではない。イエス様は復活の命を生きている」と言っているのだと思います。イエス様の遺体がないという事実と、そのことの意味を知らされた女性たちは墓を出て、つまり、方向を変えたのです。そして、震え上がり、恐れます。イエス様の復活はこの世の命に戻ることではなく、神様が与える新しい命を生きることなのであります。

 今日の福音書では、7節にある、「白い衣を着た若者」つまり、「天使」の言った「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」という言葉に注目しました。天使は女性たちに「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と命じます。イエス様と会うことのできる場所は墓ではなく、イエス様が先立って行くガリラヤであるということです。ガリラヤというのは弟子たちの馴染みの場所、仕事をしたり暮らしたり、そしてイエス様と共にいた自分たちの故郷です。イエス様が亡くなったのはエルサレムで、ナザレの人々にとっては馴染みのない所でイエス様は亡くなられたのですが、復活されるのはガリラヤということです。弟子たちにとって、自分たちが働いて暮らしていたその場所でイエス様が復活して、出会ってくださるというのです。これは本当に大きな恵みだと思います。
 私たちにとっての「ガリラヤ」とはどこでしょうか? それは私たちの今の現実の日々の生活ではないでしょうか? 自分が今暮らしている家庭や職場、地域など、生活し活動しているいつもの馴染みの場所が、私たちのガリラヤなのだと思います。そのガリラヤで私たちも復活した主に出会うことができる。それをこの天使が私たちに告げている、そう思うのです。
 
 ところで、最近この映画をDVDで見ました。

 それは「ジーザス・クライスト=スーパースター」という「キャッツ」や「オペラ座の怪人」等で有名なロイド・ウェーバー作曲によるロック・オペラです。この映画は1973年に公開され、イエス様最後の七日間を2000年前のエルサレムを舞台に描いていますが、イエス様の周りにいる群衆たちは現代の衣装で、使っている道具も現代のもので音楽や踊りも現代のものです。これはまるで、イエス様は2000年前のイスラエルの過去の遠いところの人ではない、今の自分が生きている日々の生活の中で、私たちはイエス様に出会うことができると言っているように思いました。

 さらに、先ほど注目した天使の言葉『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』では「あなたがたより先に」「~行かれる。」と語っています。このことは意味深いと思われます。イエス様は、私たちよりも先に行かれる、行って待っていてくださる。そこに私たちが行くのです。これは、私たちはイエス様のみ跡を歩むということです。するとそこでイエス様にお会いすることができるのです。
 言い換えれば、イエス様のみ跡を歩むことで、日々の生活の中で復活の主イエス様に出会うことができるのだと言えます。その時、私たちに必要なものは何でしょうか? それは「信仰の目」だと思います。その目を持てば「空の墓」を見て、その先にあるものを見ることができます。それにより、天使の言った「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。~そこでお目にかかれる。」という言葉の意味を正しく理解できるでしょう。
 2000年前の弟子たちは、イエス様の十字架を前に「イエス様を知らない」と言ってちりぢりになってしまいましたが、その後、復活の主と出会って、生き方が変わり、新たな信仰者として力強く歩み出しました。復活の証人としてです。このように復活の主に出会うことにより、新たな人生を歩むことができるのです。

 皆さん、復活日を迎えた私たちは、その喜びを味わうと共に、「空の墓」の先を見る信仰の目を養っていきたいと願います。そして、主イエス様のみ跡に従い、それぞれのガリラヤである、今、ここの日々の生活の中で復活の主に出会い、復活の証人として力強く歩んでいくことができるよう祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン