マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活日 聖餐式『「空の墓」を信仰的に見る』

 本日は復活日(イースター)です。午前・前橋、午後・新町の教会で聖餐式を捧げました。 
 聖書箇所は、使徒言行録10:34-43 とヨハネによる福音書20:1-18。説教では、自分の心の向きを180度回転させることにより、復活したイエス様を実感できることを知り、「空の墓」におけるイエス様の愛する弟子のように洞察し信仰的に見て、復活を信じる者とならせていただくよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所の後半を描いたフラ・アンジェリコの絵画「我に触れるな」も活用しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

イースターおめでとうございます。コロナやウクライナでの戦争、トルコ・シリアの地震等、いまだ社会情勢が不安な中で迎えたイースターですが、そのような時だからこそ、イエス様の十字架を経て救い主の復活を迎えたことを喜びたいと思います。新町の教会にとって新しい勤務表になって初めての礼拝ですが、本日は前橋の教会の聖餐式が午前にあり、新町は特別に午後2時からにしていただきました。

 さて、本日の聖書日課についてですが、A年の復活日の福音書は、ヨハネまたはマタイの「空(から)の墓、空虚な墓(The Empty tomb)」の箇所が割り当てられています。今回はヨハネの方を取り上げます。使徒書は使徒言行録からで、ローマの百人隊長であるコルネリウスの家でペトロが「使徒たちへの復活の主イエスの顕現(現れること)」が強く語られる箇所です。
 
  本日の福音書ヨハネの20章1節からで、今回は18節までと長い方を取りました。マグダラのマリア、シモン・ペトロ、イエス様に愛された弟子が、イエス様の墓に行って、墓が空(から)であることを見た後、マグダラのマリアが復活したイエス様にお会いする箇所です。

 今日の箇所は大きく2つの部分からなっています。前半は1-10節、後半は11-18節です。それぞれ見て参ります。
 まず前半、1-10節です。
 週の初めの日(日曜日)、マグダラのマリアは、安息日が明けるやいなや、まだ薄暗いうちからイエス様を葬った墓に向かいます。そこで、塞いでいたはずの石が取り除けられ遺体がないのを見ました。マグダラのマリアはすぐさま弟子たちのところへ飛んで行って、「誰かが主を墓から取り去りました」と報告します。ペトロともう一人の弟子が先を争ってイエス様が葬られていた墓に急ぎます。墓に着いた彼らが目撃したのはまさに空(から)になった墓でした。そして、ペトロは先に墓に入り、イエス様の身をくるんでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いを見ました。さらに、もう一人の弟子も墓に入り、彼は見て信じました。目的語がありませんが、おそらくイエス様の復活を信じたのだと思います。それから弟子たちは家に帰りました。
 続いて後半、11-18節です。
 マグダラのマリアは、墓の所に戻ってきて、墓の入口で泣いていました。弟子たちが帰っていった後、墓の中を見ると、イエス様の遺体が置かれてあったところに、白い衣を着た二人の天使が座っているのが見えました。
 天使たちが、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは、「誰かが私の主を取り去られました。どこに置いたのか、分かりません」と言って、後ろを振り向くと、そこに、イエス様が立っておられるのが見えました。しかし、マリアには、それが、イエス様だとは、分かりませんでした。イエス様は言われました。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」と。
 マリアは、その人は園の番人だと思って、言いました。「あなたがあの方(イエス様)を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」と。
 イエス様が、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ(先生)」と言いました。イエス様は言われました。17節です。
 「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」
 マグダラのマリアは、弟子たちのところへ、また、走って行って、「私は主を見ました」と告げ、復活されたイエス様から言われたことを伝えました。
 このような話でした。

 私はこの箇所の前半1-10節では、「見る」と言う言葉に注目しました。日本語ではどれも「見る」で英語の聖書でも「see」で同じなのですが、ギリシャ語原文は違う言葉が使われていました。マグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを「見た」とありますが、ギリシャ語原文では現在形でブレポー、この意味は単に「目で見る」ということです。ペトロが亜麻布が置いてあるのを「見た」とありますが、原文は現在形でセオレオー、英語のセオリーの語源になった言葉で、「詳細に観察する」といった意味です。「もう一人の弟子も中に入って来て、見て」のギリシャ語はエイドンで、「洞察する」とか「(精神的・霊的に)見て知る」ということで、信仰的に見ることを意味します。それぞれ意味合いが違います。マグダラのマリアは単に目で見て、ペトロは論理的に観察し、もう一人の弟子は洞察しました。そしてこの弟子は「(霊的に)見て」信じたのでした。
 マグダラのマリアやペトロとこのもう一人の弟子の違いは何でしょうか?
 マグダラのマリアやペトロは「空の墓」を、「イエス様の遺体がない」というふうに見ています。しかし、もう一人の弟子は、事実の奥にある出来事を洞察し、復活を信じました。このイエス様に愛されていた弟子はヨハネと見られてきました。彼は「空の墓」を霊的に、信仰的に見て、今もイエス様が自分を愛していることに気がつき、イエス様が今も生きている、つまりイエス様の「復活」を信じたのではないでしょうか?
 
 この箇所の後半、11-18節では、「振り向く」と言う言葉に注目しました。
 マグダラのマリアが振り向いたとき、その後ろに、イエス様が立っておられました。しかし、マリアにはその方が、イエス様だとは、すぐには分かりませんでした。イエス様から「マリア」と、名前を呼ばれ、マリアは、振り向いて、はっと、気がつき、思わず「ラボニ(先生)」と答え、その足もとに取りすがろうとしました。それに対してイエス様は「私に触れてはいけない。」とおっしゃいました。
 そのときの様子を描いた絵画がフラ・アンジェリコの「我に触れるな」です。

 この絵は、サン・マルコ修道院の中の僧房の一室に壁画(フレスコ)として描かれました。ここでのイエス様は両足を交差させ草上に浮かんでいるように見えます。また、手足には聖痕がはっきり見えます。
 これまで墓の方を見ていたマグダラのマリアは向きを変え、復活したイエス様にひざまずいて礼拝しているようです。
  ここでは「振り向く」と言う言葉が二度出てきて、二回振り向くと元に戻ってしまうように思いました。「振り向く」と訳されたギリシャ語は「ストゥレフュオー」で辞書を引くと意味が二つありました。「振り向く、向きを変える」と「方向転換(改心)する」です。一回目と二回目では意味合いが違うのではないかと思います。最初に、マグダラのマリアが振り向いてイエス様を見たときは、文字通り振り向き体の向きを変えたのだと思いますが、イエス様から「マリア」と名前を呼ばれ振り向いたのは、回心、心の向きを変えたのだと思います。それによって復活したイエス様を実感することができたのです。
 このことは、私たちが、復活したイエス様を実感するには、私たちが今まで持っていた考え方や、とらえ方を変えなければならないということではないでしょうか?

 皆さん、私たちの今の空(から)の状態、空虚な状況の中にもイエス様は生きておられます。そして必ず「復活」の姿を現されます。しかし、それがイエス様であることは分からないかもしれません。自分の心の向きを180度回転させ振り向くことにより、復活したイエス様を実感することができるのです。今、目の前に起きている出来事を、イエス様が愛された弟子のように、洞察し信仰的に見て、復活を信じる者とならせていただくよう祈り求めて参りたいと思います。